ルルドの泉・聖母の涙
Lourdes


 パリからTGV(フランスの新幹線)に乗車して6時間、ボルドーのブドウ畑を過ぎるとピレネー山脈の麓の町ルルド(Lourdes) に着く。ルルドは今でこそ有名な巡礼の町だが聖母マリアが出現した1858年当時のルルドの人口は4500人の町にすぎなかった。現在は巡礼者が年間500万人も訪れる。田舎の寒村にしかすぎなかったルルドは今やパリに次ぐ大きな観光地になっている。

 町はハレルヤと賛美歌が流れ、車イスや寝たきりのまま車付きのベッドで移動する人々でいっぱいだ。私の様なカトリック教徒でない人々も含めて世界中からこのルルドに引き寄せられている。今のルルドはバチカンやメッカ、エルサレムを凌ぐ世界最大の巡礼地なのである。ルルドの巡礼シーズンは4月1日から10月10日までで冬の時期はホテルや土産物屋はほとんど閉めてしまう。

 今さら説明することもないと思うがルルドの奇蹟は極貧の14歳の少女、ベルナデッタ・スールビーが白い衣服の貴婦人に出会った事が発端だ。貴婦人の命ずるままに地面を掘ると、こんこんと泉が湧き、盲目の人がその泉で顔を洗うと目が開き、足の不自由な人が水に浸かると歩けるようになったのである。その奇蹟はすぐにルルドの町中の噂になった。第四回目の出現では8人だった巡礼者が第六回目で100人、15回目のときは8000人にふくれあがりその後、短期間でフランスを越えてヨーロッパ各国に広がった。ついには世界各地からつ500万人もの巡礼者がルルドに訪れるようになるのである。日本ではちょうど明治維新(1868年)前夜の頃である。

 ところで7年前にアヴィニョンという町で貧しいローズという農家の娘がおこしたルルドと同じ様な事件があった。教会の飾ってあった絵画のイエスの傷口から血が流れ出し、大変な騒ぎになったのだが旅館の男と司祭の詐欺だということになり、娘は投獄された。

 詐欺事件があったので二の舞はごめんとルルドでもベルナデッタはそうとう疑惑の眼で見られた。しかし真摯さと何回尋問されてもベルナデッタが首尾一貫した態度を貫いたので人々は何かが起きている事を感じるようになった。不思議な事に白い貴婦人はベルナデッタに一度も「聖母マリア」だと名乗らなかったし、またベルナデッタも「聖母マリア」である事を一度も言っていない。

 なぜ聖母マリアになったのかというと熱心にベルナデッタが名前を教えてほしいと頼んだ結果白い貴婦人が「わたしは無源罪の宿りです」といった言葉による。この日はちょうど大天使ガブリエルが受胎告知した祝日だった。「無源罪の宿り」この言葉をきいて初めてインテリの司祭は聖母マリアの出現を受け入れるようになった。

 ルルドではベルナデッタ以外聖母マリアの姿を見た者も声を聞いた者も誰一人いない。これでは懐疑論者に聖母マリアの根拠はあやしいといわれてもしかたがないだろう。聖母マリアの物理的な証拠などないのである。あとは信仰の問題だった。

 キリスト教で源罪というのはエデンの園で神ヤハウェが知恵の実だけは食べるなといわれたにも関わらず神の言いつけに背きアダムとイブが知恵の実を食べ、楽園を追われた事を指す。キリスト教もいろいろあるが一般的に神の言いつけを守らなかったアダムとイブの子孫である我々は源罪の汚れを受けていると考えるようだ。言う事を聞かないと鞭をふるわれるのは家畜だが「言う事を聞かないと罰を与えますよ。」というのも幼稚園児のようなあつかいだ。子供を従順で行儀よく親の都合の良い子にさせるために罰で行動を規制する聖書の教義は程度が低いと思う。本来は原罪という壁を超越して自分の行動に責任を持つ大人の態度でなくてはならない。

 キリスト教神学の基礎を築いたアウグスチヌス(5世紀)は「ただひとり聖母マリアだけが原罪を免れている。」といったので、カトリックでは処女から生まれたのはイエスだけではなくその母のマリアも処女から生まれたことになっている。そのため罪のない婦人といえば聖母マリアただ一人をさすので「わたしは無源罪の宿りです」と語った白い貴婦人は聖母マリアということになるのである。

 現代人が文字通りこれを信ずるのは難しいと思う。マリアは14歳までエルサレムの神殿で奉仕していたといわれているのでその時に男性と関係をもったのではないかと言う説も出されている。ローマ兵ではないかとか、祭司のザカリアではないかと想像した哲学者ケルススもいる。実際、歴代ローマ教皇のなかには祝福を与えるといって娘達とヴァチカンで性行為におよんだ教皇もいたようだ。

 宇宙人がマリアに人工受精したのだといいはるUFO派の人々もいて、この人たちにかかるとイエスまでが宇宙人となる。

 エドガー・ケイシーのリーディングによるとマリアの母のアンナも処女降誕したそうである。これはカトリックには受け入れられそうな話だ。リーディングではカルメル山で12人の乙女が救世主降誕の候補として選ばれエッセネ派の神殿で霊的な訓練を受けたことになっていて、その中からマリアが救世主の母として選ばれたとリーディングは述べている。

 1949年に作られたザ・ソング・オブ・ベルナデッタ THE SONG OF BERNADETTE(日本語版聖処女)はルルドを題材にして制作された白黒のアメリカ映画だが当時は大ヒットした。ストーリーは史実のエピソードにそっていてベルナデットを演じたのは夫と子どもを持つ駆け出しの新人女優ジェニファー・ジョーンズだ。彼女はこの作品で、アカデミー主演女優賞を受賞した。その後ジェニファー・ジョーンズは不倫をして旦那のウォーカーとは離婚、別れた俳優のウォーカーはアルコールに溺れるようになり、映画の撮影中に睡眠薬の過剰摂取による呼吸器疾患で死亡した。ジェニファー・ジョーンズの不倫相手のセルズニックとの間に生まれた娘のメアリーは精神を患っていて76年には飛び降り自殺している。結婚歴3回のジェニファー・ジョーンズもアルコールに溺れ、一度自殺を図ったことがある。その後ドラッグ中毒の子供たちの更正に力を入れたり、精神病患者のための基金を設立し90歳で亡くなった。聖処女を演じたジェニファー・ジョーンズも並の人生ではなかった。

 エジプトにはホルスを抱くイシスの母子像がある。イシスはナイル河岸の大地に穀物の実りをもたらすエジプトでもっとも人気が高かった大地母神だった。ナイル上流のフィラエ島にあるエジプト屈指の壮麗なイシス神殿はキリスト教がローマの国教となった以降も6世紀すぎまで存続していたがついに閉鎖されイシス信仰はキリスト教のマリア信仰に代わった。コプトのキリスト教は熱烈なマリア信仰をもっている。

 中世パリのサンジェルマン教会には1514年まで黒いイシス像を聖母マリア像として飾られていた。母が子を抱くイシスやデメテルの像はマリアの聖母子像に似ていたのでキリスト布教初期には同一視されたようだ。シチリア島ではマリアの聖母子像のかわりにデメテルの母子像を奉る事を許されていた。デメテルとは穀物をつかさどるギリシャの女神である。穂麦のマリア、マリアの泉、ブナの聖母、満月に照らされている泉は若返りの力があるなどの聖母マリアの伝説はヨーロッパ中にある。キリスト教以前の古代ヨーロッパの地母神信仰はマリア信仰に取って代わったのである。

 ヨハネの黙示録12章1に 「また、大いなるしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」とある。この黙示録から「勝利のマリア」と呼ばれるマリア像が表現された。マリアに抱かれた幼子のキリストは槍でドラゴンを突いている。マリアが踏む月は征服されたアルテミスなど月の女神を象徴している。ドラゴンとはキリスト教にしたがわない異教徒に他ならない。

 現代の聖書研究によると聖書の物語のパターンはそれ以前の宗教や対抗する宗教から受け継がれたとされている。敗北した神々は新しい支配者の前に怪物となって現れるのである。そうして古い神話を借用して新しい物語がその中に混合されていく。古い物語を絶えず新しい物語に転換した結果、残されたのが聖書なのだ。元の物語は大規模な新しい物語の背後に隠れているのである。

 ルルドがあるビゴール地方は10世紀にも聖母が出現したといわれ昔からマリア信仰がさかんだったようだ。16世紀にガレゾンの泉で12歳の少女に聖母があらわれ17世紀にもベタラムで泉が湧き奇跡の治癒が起きている。ビゴール地方はヨーロッパがちょうどくびれているように陸地が狭くなっており、ピレネー山脈にそって竜脈が走っている。ルルドがあるあたり一体は天と地をつなぐ古代の信仰があった聖なる場所なのである。

 ルルドの奇蹟が起きた19世紀のマリア出現は20回以上に及ぶ。その出現は20世紀に入っても衰えず、カトリックではマリアの世紀とよんでいる。

 マザー・テレサの施設には必ず白の衣に水色の帯をしたマリア像があると聞いている。それはベルナデッタがルルドで幻視した同じマリア像だ。マザー・テレサがこよなく憧れ慕っていたのが、聖母マリアである。

 女性のリーアン・アイスラーによると男性原理は競争、破壊、戦闘的で女性原理は共生、創造、平和的であるという。この言葉には女性のアイスラーが男性に対するネガティヴなイメージを持っているように思える。男性のF・カプラによると男性原理は陽的、膨張、積極、競合、合理、分析的で女性は陰的、収縮、反応、協力、直感、統合的である。

 いずれにしても現代社会の構造は男性支配的であり、競争的だ。対象を要素に分解する合理的で科学的な思考方法が主流である。そのような偏った傾向は地球のバランスを狂わせ生態系の破局を招いている。

 神は男性と女性の両面性をもっている。あるいは善と悪、死と生、光と闇、存在と非存在とあらゆる二元性を超えているといってもよいかもしれない。一神教のイスラム、ユダヤ、キリスト教は多神教、自然宗教を悪魔やサタンとして2000年以上戦争をしかけて滅ぼして来た。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教が信じている教典、旧約聖書にはこんな恐ろしい話が載っている。

 あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ入、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぽし尽くさねばならない。「申命記」第二十章十〜十ハ節

 「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぽし尽くした。……彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた」「ヨシュア記」第六章二十一〜二十四節

 「彼らはイスラエル軍の挟み撃ちに遭い、生き残った者も落ちのびた者も一人もいなくたるまで打ちのめされた。……その日の敵の死者は男女合わせて二万二千人、アイの全住民であった」「ヨシュア記」第ハ章二十二、二十五節

 「ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息ある者をことごとく滅ぽしつくした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。」「ヨシュア記」第十章四十節

 同じ神話をもっている者どうしが現代でも全く変わらない殺しあいをしていることには驚かざるをえない。私には男性的な彼らの神は心が分裂しているように思える。男性と女性に分裂した神々が再び愛しあい結ばれる。そうして始めて世界は成就するのである。

 男達が弓矢や剣を持ち出して戦い始めたとき聖書以前の古代の女性達は戦っている男たちの間に泣きながら入って戦いをやめさせたという。 古代の女性は尊敬されており、彼女たちを傷つけてはいけない掟があったのだ。

現代でも聖母は現れている。世界中に表れた現代の聖母は涙を流しながらこう告げている。

 オリヴェト・シトラ(イタリア)「世界は奈落の淵にあります。祈りなさい、特に大きな国の為政者のために祈りなさい。なぜなら、彼らは、戦争を計画し、暴力を拡大することに忙しくて、祈る時間がないからです」(1985年11月2日)

 ダマス(シリア)「私の子供たちよ、神のことを思い出しなさい。神は私たちと共におられます。あなたがたは全てを知っていますが、同時に何も知っていません。あなたがたの知識は不完全なのです。神が私を御存知のように、あなたがたが全てのことをよく分かる日がくるでしょう。あなたがたに悪を行なう人々を大切に扱いなさい、そして誰に対しても冷たい扱いをしてはなりません」(1982年12月18日)

 現代に現れた聖母はどうやら戦いをやめない人間の行く末を母親の様に按じているようだ。
                    2006年01月12日

                   

参考文献


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ホテルが立ち並ぶルルドの町
ルルドの洞窟前の巡礼者
泉が湧くマサビエルの洞窟
尋問を受けるベルナデッタ
ルルドのジオラマ館より
表れた場所に設置された聖母像
ルルドの泉
大聖堂のステンドグラス
洞窟前の蝋燭
洞窟へ向う巡礼者の群れ
水汲み場
ベルナデッタの生家
聖母を見た少女
ベルナデッタ・スールビー
泉が湧く洞窟前
バチカンの枢機卿
ルルドの大聖堂の夕暮れ