辺境の日本

 仏教僧の旅は大きく二つに分けられるという。真実の仏法をもとめて他国へ渡り、聖地を巡礼してこころの浄化をはかり、仏典や師を求める「求法(ぐほう)の旅」と、もう一つの旅は、自分が体得した境地を他の国の人々に伝える「弘法(こうぼう)の旅」である。

 昔の日本人はインドを世界の中心と考えていたようだ。鴨長明は「小国辺鄙の境なれば」と書き、神皇正統記には「一辺の小国なり」と記され、鎌倉時代の日蓮は「末法に生をうけて辺土のいやしき身」と呼び、日本を辺境の地とみなしていた。

 では昔の日本人がインドの実状を全く知らなかったのかと言うとそうでもなかったようだ。鴨長明の「発心集」には「かの天竺は南州の最中、正しく仏の出で給えり国なれど、像法の末より、諸天の擁護ようよう衰え、仏法滅し給えるが如し。霊鷲山のいにしえのこと、虎狼のすみかとなり、祇園精舎の古き砌(みぎり)は、僅かに礎ばかりこそは残りて侍るなれ」とインドで仏教が衰退していることを記している。

 戦乱の絶えない中世の人々は末法の世が到来する考えに縛られていたので、インドで仏教が衰退したことも末法の世を強く意識させられたことだろう。
          

 森本右近太夫            



アンコールワット西正面

 十七世紀のころの日本は朱印船貿易が盛んで当時のカンボジアではプノンペンともう一カ所の町に約300人以上の日本人が滞在ししていた。トレンサップ川をさかのぼったピニャールの町には日本人によって建てられたキリスト教会があって、そこでは日本人町がつくられていた。朱印船に乗船してきたのは商人だけでなく、日本で弾圧を受けた切支丹の信者たちもカンボジアに逃れてきたのである。

 
アンコールワット

アンコール・ワットに残された日本人の墨書は、全部で14例あるという。一番長くまとまった文は森本右近太夫の書である。その他、朱印船による貿易商の肥後の嘉右衛門尉の名前など堺、肥前、肥後、大阪、などの出身地名が残さている。墨書と言っても文化財の落書きなのだが、そもそも文化遺産という概念は近代のもので、アンコール・ワットの付近の住民にも文化遺産という概念はなかったらしい。落書きも古くなると歴史遺産になるのである。判明している日付は慶長17年(1612年)と寛永9年(1632年)で朱印船貿易が盛んな時代に当たる。またアンコール・ワットの墨書に「同行9人」と書かれていたことから団体旅行をしていたことがわかる。

回廊の浮き彫り

 加藤清正の重臣森本義太夫の子、森本右近太夫一房は1632年に明国を経て寛永9年(1632年)の 正月にカンボジアのアンコールワットを訪れた。墨書によると、森本右近太夫は父の菩提を弔い、老母の後生を祈るため仏像4体を奉納したと12行にわたってアンコールワットの柱に記した。その墨跡はアンコールワットの中央回廊付近の柱に残っていて今でも見る事が出来る。私が数年前に訪れたときガイドが説明していたので日本人の観光スポットになっていた。残念なことにカンボジア内線時代に剥落し以前よりも文字が読みにくくなってしまっていた。                    

池田之住人森本儀太夫と記されている。
森本右近太夫の墨筆

 アンコールワットの柱に残された森本右近太夫の墨筆

 17世紀、東南アジアを訪れていた当時の日本人はカンボジアを南天竺と考えていてアンコール・ワットをインド・コーサラ国の祇園精舎と思って参拝していた。水戸市の彰考舘には祇園精舎(実際はアンコール・ワット)の絵図面が残されている。「アンコール・ワット」石澤良昭著 によると祇園精舎絵図の裏書にある制作者島野兼了は偽名で森本右近太夫が本当の絵図の制作者ではない かとされている。

 アンコール・ワットは9世紀から13世紀にかけて栄えたアンコール王朝のクメール人が築いたアジア最大の遺跡である。ヒンドゥー教を信仰していたスーリヤヴァルマン2世(1113年に即位)はヴィシュヌ神に捧げるために30年かけてアンコール・ワットを建立した。中央の塔は宇宙の中心である須弥山・カイラス山を表している。1431年に都が完全に放棄された後のアンコール・ワットは仏教寺院に衣替えして、仏教徒から聖地として崇められてきた。仏道修行に励む森本右近太夫は娑婆世界(俗世間)の汚れを払う為に日本まで知られていたアンコール・ワット・祇園精舎まではるばる巡礼したのである。


アンコールワット回廊

 森本右近太夫がアンコール・ワットを参拝した1632年に加藤家は改易になり、肥後(熊本)は細川藩に変わった。森本右近太夫はアンコール・ワットを参拝する前に清正公と父の死後,混乱する肥後熊本藩に見切りをつけ肥前の松浦家に仕官していた。日本に帰国した翌年1633年は海外渡航を禁じた鎖国令が徳川幕府によって出された年だった。鎖国の取締まりは厳しく、そのため森本右近太夫は、熊本藩に使えていた一族や新たに仕えることになった仕官先に迷惑がかかることを恐れた。森本右近太夫は父義太夫の故郷京都に住まいを移し、佐太夫と名前を変えて渡航を隠し、人目をはばかって暮らした。京都の乗願寺には実名を隠し、名前を変えた位牌が発見されている。聖地巡礼は森本右近太夫の人生を大きく変えてしまった.

アンコールワット内部の涅槃像

 1635年に幕府は日本人の渡航と帰国を完全に禁じた。日本との交流が断たれた東南アジア各地の日本人町は姿を消して行った。その後カンボジアはタイとベトナムに占領されてアンコール王朝は人々の記憶から完全に忘れ去られてしまった。他の遺跡はすべて密林に埋もれてしまったがアンコールワットだけは上座部仏教の聖地として今日まで存続した。        

 結局その後、明治の時代になるまで本当の天竺の仏蹟にたどり着く日本人は誰もいなかった。インドはあまりにも遠かったのである。

参考文献                        

「インド・道の文化誌」小宮正捷・他著 春秋社
「アンコール・ワット」石澤良昭 講談社現代新書

アンコール・ワット―大伽藍と文明の謎

インド・道の文化誌


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