栄西(えいさい)

 栄西は今の岡山県の出身で神官の子として生まれた。おさなくして仏教の教学に興味をもち、14歳のとき比叡山延暦寺で受戒、19歳のとき今の鳥取県の大山寺(だいせんじ)で天台密教をまなんだ。

 栄西がはじめて中国にわたったのは、平清盛が全盛時代の1168年4月18日、28歳の時のことである。4月25日宋の商船で無事宋の明州についたかれは5月14日に天台山にのぼり、5月24日万年寺に至った。万年寺で茶を五百羅漢に供養すると茶瓶の中に阿羅漢(悟りを開いた人)の姿が現れた。さらに石橋を渡ると青龍2頭が現れる不思議を見た。この奇端により栄西は自分の前世がインドの僧で、かつてこの万年寺に住んでいた事を知ったという。各地の聖地を参拝したところ霊感を受けるところが少なくなかったと栄西は述べている。その年の9月、わずか9カ月間の滞在で栄西は日本へ帰国した。

 帰国後は博多湾に面した今津にいて、再渡航の機会をまっているうちに15年経ってしまう。その間に栄西の名声は京都にまで知られる様になった。ある日、栄西は朝廷より勅命により神泉苑で雨をふらせる祈祷をおこなった。栄西の両手からは大光明が放たれ、たちまち雨が草木に降り、葉上の露にはことごとく栄西の影像が現れたという。このことから平頼盛の帰依を受け後鳥羽天皇より葉上の号と紫の衣を賜った。栄西の入宋に反対していた平頼盛は平家滅亡(1186年)によりに死去した。 

 その翌年、かねてよりインドにわたって仏跡を巡礼して、仏法の再興をしたいとの思いを深まめていた栄西は(1187年)4月、ついに入宋を遂げた。しかし栄西は宋の都でインド行きを願いでるが許されなかった。中国から天竺に入る三本の道はモンゴルの影響下にあり、いずれも通行出来なかったのである。あきらめて帰国にむかった栄西の船は難破して温州に漂着する。その地で栄西は天台山の万年寺を訪ね、虚庵懐敞(きあんえしょう)について臨済宗黄竜派の禅を修めた。栄西によると万年寺の第一世である吉祥旦(きっしょうたん)尊者は栄西の前世にあたり栄西自身この地に三度生まれているという。2年後に師が天童山にうつったので、栄西もそれにしたがった。栄西は師より明菴(みょうあん)の道号をさずけられて入宋5年後の1191年7月に宋船で帰国した。

 1195年には博多に聖福寺をたてて、戒律を重視する禅をひろめる第一歩とした。栄西は生涯金運がよかった人で、平家の平頼盛の帰依を受けた後、鎌倉の幕府からも絶大な信頼をうけている。世渡りがうまいともいえる。その後京都に建仁寺をたて、さらに東大寺の復興に力をつくすなど、ひろく日本仏教の中興につとめた。帰国に際し、栄西は茶の種を持ち帰り筑前の背振山に植え、「喫茶養生記」をあらわして、喫茶の風習をひろめた。栄西は茶祖とも称される。栄西より茶種をもらい受けた明恵上人は、栂尾高山寺の前庭(深瀬の園)に植えて良質の茶を得ることとなった。明恵上人は我が国煎茶法の元祖とされている。

 禅宗は天竺の第1祖マハーカシャパにはじまって第28祖がボーディダルマとなる。ボーディダルマ(菩提達磨)は俗にいう起きあがりこぼしの達磨さんの事である。ボーディダルマは南インドのカーンチプーラムの出身でパッラバ王の第三王子と伝えられている。ボーディダルマはマハーバリプラム今のマーマッバリプラム港から出航して南越(ベトナム)を経て広東に到着している。それは520年代、随と陳の以前、梁の武帝の時とされている。
栄西によると中国の禅宗はボーディダルマに続いて第29祖慧可、第33祖慧能、第35祖馬祖、第37祖黄檗、第38祖臨済、第45祖黄竜、第53代が栄西ということである。栄西は日本禅宗の祖とされる。

参考文献 「禅入門1」 栄西 古田紹欽 講談社

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