最初にブッタガヤを訪れた日本人

北畠道龍

 明治十六年ついに日本人で初めて仏蹟巡礼に成功したのは 紀州出身で浄土真宗西本願寺派僧侶の北畠道龍(きたばたけどうりゅう)(1820-1907)である。明治14年末に横浜を発ってヨーロッパを歴訪した北畠道龍は、明治十六年十月二十五日イタリアのプリンジーゼ港から英国船モンゴリア号に乗船して航海17日後の明治十六年十一月十一日にムンバイへ上陸した。

 北畠道龍は随員黒崎雄二と共に20日後ヒンズー教の聖地ガヤーに到達する。そこから十三キロ南のブダガヤの聖地を訪れた北畠道龍は黒崎雄二を抱いて狂喜乱舞したという。 感動した道龍は 阿弥陀経一巻を誦して
「年を経て 名のみ残りし 伽耶の里
今日みほとけの 跡を訪うかな」と詠じた。
この歌を 四尺余の自然石に書き留めその裏には「日本開闢来 余始詣于 釈尊之墓前
明治十六年十二月四日 道龍」
と刻んで石碑を建てた。彼はブッタガヤの大塔を「釈尊之墓」と勘違いしているが、ここはゴータマブッタ(釈迦牟尼仏)が悟りを開かれた場所で仏教徒にとって最高の聖地である。ブッタが亡くなられたのはクシナガラである。インドでは12世紀から13世紀にかけてイスラム教徒が侵入して寺院は破壊され比丘は虐殺されている。

 チベットの巡礼僧ダルマスワーミン(1224〜1246)は「ボードガヤのマハーボーディ寺院では比丘達はすべて逃亡してしまい、最後に残った四人が仏像を安置してある部屋の入り口を煉瓦で閉じ、寺の入り口のドアも塗り込めて避難した。」と伝えている。その後仏教徒は姿を消し、ブッタガヤは長い間、荒廃して土砂に埋もれていた。ヒンズー教の霊場になっていたブッタガヤの発掘がおこなわれたのは1876年からで、1880年から本格的に発掘が始まり1881年に金剛法座が発見されている。北畠道龍がブッタガヤを訪れたのは二年後の1883年である。間違えたのも無理のないことだった。発掘中の大塔の石片2個をもらい受けた北畠道龍は、十二月十二日にブッダガヤを立ち十二月二十日にインドのカルカッタを出発、シンガポールを経由して日本に帰っている。

参考文献・写真

天鼓鳴りやまず 神坂次郎 著 中央公論社
豪僧北畠道竜 北畠道竜顕彰会 大空社

北畠道竜


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