参考文献 南條文雄自叙伝 南條文雄 大空社 参考文献・写真 平成17年大法輪6月号 大法輪閣 Copyright (C) Ihatov Institute of Integral Body & Mind all rights reserved
南條文雄 (1849-1927)
浄土真宗大谷派(東本願寺派)の僧侶だった南條文雄は二十六才のとき明治九年に英国留学し、マックス・ミューラーよりサンスクリットを学び、明治十七年アメリカを経由して日本へ帰国した。南條文雄は「南條カタログ」という仏典リストで海外にも名を知られたサンスクリット学者である。南條文雄がインドへ行くことになった経緯は明治十九年芝の増上寺の福田行誡に会ってからである。
81才になる福田行誡は徳望が高い人物として明治の仏教界では知られていた。
その高僧は会うなり南條文雄の両足に礼拝して短歌を差し出した。
「接足作礼 み仏のみ跡ふむ足尊しな、
我いただかんみ跡ふむ足 行誡 八十一」
福田上人は仏教発祥の地インドへ渡ることができないので、インドへ行った南條文雄の足を頂くことでその代わりとしたのである。
この高僧は南條文雄がロンドンからの帰り道インドに立ち寄って仏跡を参拝したと思いこんでいたのだった。
当然、困ったのはインドへ行っていない南條文雄である。 高齢の師にそれを言い出せなかったのである。
そんなこともありインド行きを堅く決心した南條文雄は、翌年の明治二十年一月十一日ドイツの商船に乗船した。インドのマドラスには二月十日に到着した。当時陸軍少将の乃木希典と同船であった。
カルカッタを経てベナレス、ブッダガヤを訪問、南條文雄はブッダガヤで北畠道龍の残した石碑も目撃している。
釈興然(しゃくこうねん)
日本人で最初の スリランカの上座部僧侶となった釈興然(1849〜1924 )は横浜で高野山真言宗の住職を務めていた。早くからインドを志していた彼は明治十九年九月十九日、横浜からフランス船に乗り十月にセイロン(今のスリランカ)のコロンボに到着した。4年あまり上座部仏教の寺院で修行に励み 明治二十三年六月九日、日本人で最初の上座部仏教の僧侶になり僧名グナラタナを授けられた。
翌年の明治二十四年(一八九一年)ボンベイからベナレスを経て、一月二十二日にマハボディ・ソサエティ(大菩提会)の創立者ダルマパーラと徳沢智恵藏とともに釈興然(しゃくこうねん)は聖地ブッダガヤを訪れている。
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