島地黙雷
(しまじもくらい)

 インドへ最初に訪れた日本人は戦国時代に九州のキリシタン大名たちがローマに送った天正使節団の少年達であるが当時ポルトガル領だったゴアに立ち寄っただけである。インド国内を最初に旅行したのは島地黙雷(1837-1911)である。

 浄土真宗(西本願寺派)の僧侶だった島地黙雷は 明治五(1872)年一月 に岩倉使節団の一員として木戸孝允らと共に欧州歴訪の旅に出た。
欧州の帰りエルサレムに立ち寄ったあと明治六年
五月二十七日インドに上陸する。西インドのムンバイからアラハバードを経てカルカッタまで列車で移動した。インドの五月は真夏で平均気温は40度を超える。

 彼の評伝にはよく「仏教遺跡を巡拝した。」と記されているが実際には仏跡にはよっていない。彼の日誌航西日策によると島地黙雷は孟買(今のムンバイ)のエレファンタ島の石窟寺院とアラハバード駅近くのヒンズー教やイスラム教の寺院には立ち寄るが、残念ながら仏蹟地にはよらなかった。
 拡大解釈すれば仏跡に寄ったと主張できそうであるが、ちょっと無理がある。パトナを列車で通りすぎただけである。

 仏典では「80才を迎えたブッタは余命いくばくもないことを知り、ラージャグリハ(霊鷲山)をあとに最後の旅に出た。」とある。ヴァイシャリーに向かう途中、ブッタはパータリ村に立ち寄っている。パータリ村とは島地黙雷が通過した現在のビハール州パトナ市にあたる。ブッタはここで村人と二人のマガダ国の大臣に教えを説いた後、ガンジス河を渡った。仏滅後パータリ村はマガダ国の首都パータリプトラになり、244年に約千人の比丘があつまってパータリプトラで第三結集がおこなわれた。

 仏教の近代化への指導的役割をはたした島地黙雷はこのことには全くふれていない。仏伝を熟知していた島地黙雷が判らないのも仕方がないことだった。当時のインドは長い間仏教が荒廃していたためにブッタの聖地がどこかは、わからなくなっていたのである。考古学者カニンガムがブッタガヤの大塔を発掘するのは明治十三年である。黙雷は明治六年七月に日本へ帰国している。

 島地黙雷とその息子島地大等(しまじだいとう)は岩手県盛岡市北山の願教寺で住職を務めていた。宮沢賢治は島地大等の講話と本をよんで異常な感動を受け、法華経の行者になったとされる。

参考文献・写真

島地黙雷全集 本願寺出版部

島地黙雷


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