明恵上人の天竺行

目次
第1章 あるべきようは
第2章 愛の心のないものに仏法はわからない。
第3章 紀州の白上の峰
第4章 死を覚悟した修行
第5章 夢見の技法


 明恵上人ほど釈尊を慈父と思い、ひたすら釈迦牟尼仏その人を恋い慕う日々を過ごした人はいないともいわれている。
紀州の糸野において修行していた頃 、 明恵上人はお釈迦様に対する恋慕(れんぼ)の思いを抑えがたくなって、 ついに天竺行を志す。三十歳 の時である。

 明恵上人は中国の玄奘三蔵が書いた「大唐西域記」を資料にして綿密な計算をした。
「唐の長安の都よりインドの王舎城(ラジギール)までは五万里で八千三百三十三里十二丁あるから、もし一日に八里歩けば千日で王舎城に着く。正月一日に長安を出て三年目の十月十日に王舎城に到着する。
一日に歩く距離を七里とすれば一千百三十日かかり、四年目の二月二十日に到着する。
もし五里とすれば、五年めの六月十日牛の刻に着くだろう。」
この「天竺里程記」にある計算メモには日本から中国までの日数が入っていないが明恵上人の天竺行きにかける意気込みが伝わってくる。

 天竺行を弟子たちにうち明けるが 、人々の知る所となり、多くの人々が引き止めるようになり、ついに神様までが引き止めに来ることになった。
当時は隣りの中国へ渡るのも容易なことではなかった。実際、中国へ渡り日本へ戻ってこない者も少なくなかったのである。
次の年の 正月、二十六日のことである。
健仁三年(1203年)伯父の湯浅宗光の妻に春日大明神が乗りうつり「自分は春日大明神なり。明恵の天竺行きを止めるためにきたのである。」と告げた。明恵上人はこの託宣が真実かどうか祈っていると三日後に再び春日大明神が降りる。
この時、湯浅宗光の女房はただならぬ様子だったようだ。顔色は水晶のように透明になり、全身から出た不思議な濃い香りがあたり一面にただよい、哀雅をおびたその声を聞いて涙せぬ者はいなかったという。

 「我が子のようにいとおしく思っている。諸神みなが守護しているが、とくに住吉大神と春日大明神とは離れず守護しており、自分は父親と同じである。この世の人々の為に導いてほしいのに、天竺に行こうとするのは大きな嘆きである。」と春日大明神は告げ、さらに明恵上人を抱き寄せ「いとおしい。」と涙を流され「必ず必ず我が言葉に違ってはなりませぬ」と言われた。このとき人々は泣き叫び、明恵上人は悲泣し、失神してしまったという。
 この降霊は不思議な香りがしたばかりではなく、湯浅宗光の女房の手足に甘味を発した。周囲の人々はその霊力をいただくために手足の甘味をなめた。そしてその甘味を舐めた人々は、数日甘味が口中に留まり、妙香は数日、家中に満ちて消えなかったという。
このように強烈な印象をあたえた 春日大明神の神託により明恵上人は泣く泣く天竺行を中止している。



「春日権現験記絵」 神懸かりせる橘氏女の足をなめて病を癒す。

 その翌月の二月十五日に明恵上人は、梅尾で釈尊を偲んで涅槃会を開いている。
この儀式で釈尊が涅槃に入るあたりになると明恵上人は恋慕悲歎(れんぼひたん)のあまり声がでず代わりの者が行ったという。

 ところで天竺行を中止した1203年はイスラム教徒によってインドのヴィクラマシラー寺院が破壊された年でインド仏教滅亡の 年とされている。逃れたヴィクラマシラー寺院の座主シャキャーシュリーバトラはその後ネパールを経てチベットへ入りサキャ・パンディタに受戒を授けた。そのサキャ・パンディタの甥のパクパはモンゴル帝国のフビライ・ハーンの帝師となってチベット仏教をモンゴルに普及させる事になる。

 とにかく明恵上人はインドへ行きたくてしょうがなかったようである。

元久二年(1205年)の春、三十三歳 、再び天竺行きを決意する。
一緒に行く従者は五、六人、評定をして旅の衣装も用意したのに、突然、明恵上人は重い病にかかってしまう。
日常生活も食事も別に支障がないのに、なぜかインドへ行く話しをするとその時だけ身体に苦痛がおきる。
ある時は左の脇腹、 ある時は右の脇腹に痛みが走る。深く思えば腹から背中にものすごい痛みが走って気絶してしまう。明恵上人には姿はみえないがそばに人が一人いるのを感じる。心に浮かぶのである。姿が見えないその人はインドの話が出ると、明恵上人の腹を握ったり、胸を抑えるのである。
これはただ事ではない。といっても天竺行きの志は固い決心なので、ここで止めるわけには行かない。
しかし痛み苦しんで明恵上人は疲れきってしまったので、とうてい遠い旅行は無理である。
これはもしや春日大明神が引き止めているのではないかと思って、試しにくじを引くことにした。
本尊の釈迦、春日大明神、善財童子の善知識、この 三カ所の前である。
一つのくじはインドへ行くべし 、もう一つのくじは行かない方がいいのどちらかとして。
もし三カ所の中の一つでも行くべしのくじがあれば、その時は志をかえないこととする。
そうしてくじを引いて仏前に移動したところ、どうしたことか、すぐにくじがころがり落ちてしまう。
そのくじはなぜか探してもみつからず、ついに紛失してしまう。
不思議に思い残りの二カ所のくじを引いて見ると、皆行ってはならないくじだった。
また丁度そのころ、明恵上人に知人より手紙がとどいた。
その手紙には「過日、春日大明神の社壇にお参りしたところ、神楽を舞っていた巫女が神がかった。その託宣によると。インドには明恵ほどの僧は少しはいるが日本には明恵ほどすぐれた僧はいない。 明恵上人は一般の人々を救う因縁があって、この日本に生まれてきたのだから 、その人たちの為にもインドへ行くことを止めるようにしているが、今もってその準備をしている。インドは遠いので日本には多分帰ってこれない。もし私の気持ちを破って出発すれば、明恵の希望は達成しない。そのことを知らないのか云々 (うんぬん)」とあった。
このような出来事が次々と明恵上人の身の回りで重なって起きたのである。かくして明恵上人の天竺行きは沙汰止みになったことが伝わっている。

 紀州の白上峯で、明恵上人は沖合のかすんでみえる島を天竺と思い、泣く泣く礼拝したという。仏の遺跡も河のそばにある、その河の水も今ここにいる紀州の海と続いていると思い、そこで拾った磯の石を形見の仏足石と思い持ち帰り、撫で、さすりしては眺め、拾った磯の石を生涯大事にしたということが伝わっている。
仏足石というのは釈尊の足裏の跡の形を石に彫って、それを仏の象徴としたもので、仏の三十二相の福相のうちで福輪相とよばれる。仏教を信ずる人々は仏足石を実際に釈尊がそこに存在していると思って礼拝の対象としてきたのである。
インド行きを何度も志しては、ついに果たせなかった明恵上人はその心情を「日夜憂鬱極まりない」と吐露している。

できることなら飛行機のチケットを購入して明恵上人をインドへ行かせてあげたいとも思う。
昔は命がけで何年もかけた上に、しかもたどり着くことが出来なかった天竺が、今では飛行機で8時間、一眠りで簡単にインドへ渡れる。行こうと思えば日本を出発して次の日にはブッタガヤの大塔を拝めるのだ。明恵上人はどんな顔をするでしょうか。現代の我々は幸せだともいえる。
何回もインドへ行ったわたしは明恵上人に何か申し訳ないようなそんな気持ちになることがある。
インドへ渡って、尚かつ不平不満を持つ人々には、このような明恵上人がかつて居たことを少しは思い出してもらいたいものである。

参考文献 「救いの構造」 真継伸彦 日本放送出版協会
     「明恵 夢を生きる」 河合隼雄 京都松柏社 

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第1章 あるべきようは
第2章 愛の心のないものに仏法はわからない。
第3章 紀州の白上の峰
第4章 死を覚悟した修行
第5章 夢見の技法