(ちょうねん)
 最初に宋に入国したのは平安中期東大寺の僧ちょう然である。ちょう然は儀礼化した仏教を憂い,釈尊の教えに帰ろうと宋に渡る決意をした44歳のちょう然は「願わくば先ず五台山に参り、文殊の即身に逢わんと欲し、願わくば次に中天竺に詣でて釈迦の遺跡を礼せん。」との祈願文を残して、983年8月商船に乗り弟子六人とともに宋へ渡った。無事台州についた一行は、揚州の開元寺にしばらくとどまり十二月に宋の首都に入った。宋の二代皇帝太宗はちょう然と会見し、国賓として手厚くもてなした。翌年の正月に首都の寺院を参拝したのち、三月には念願の五台山等の仏蹟を参拝した。この頃の仏教徒の多くは中国で仏教を学ぶというより五台山などの聖地巡礼が目的になっていた。 

 四大仏教聖地に数えられている五台山は現在の山西省にある。唐後期の頃から五台山は生身の文殊菩薩が住む霊山との信仰が生まれ華厳宗が栄えた。その後、清の順治帝以降、五台山に在るいくつかの寺はチベット仏教の寺院に変えられている。他の三つの霊山は浙江省にある観音菩薩の普陀山、普賢菩薩は四川省の峨嵋山、地蔵王菩薩は安徽省の九華山である。

 首都にもどる途中の洛陽でちょう然は一人の日本人の僧呂に出会った。その僧は奈良興福寺の寛健の従僧で名を超会といった。超会は56年前に五台山を巡礼するために、日本を出発したまま消息不明になっていた一行十人の内の一人だった。
彼はすでに85才の高齢になっていて全く日本語を忘れて話すことが出来なくなっていた。50年も一人で居れば我々も言葉は忘れてしまうものだろうか。筆談によると共に渡った皆は死に絶え、自分一人だけが生き残ったという。インドはもとより中国は遥かに遠い国だった。

 ちょう然がインドへ渡ろうとした宋の二代目皇帝太宗の時代は、宋の国が26年前に勃興したばかりでタングート族の西夏と契丹の遼と国境付近で争っていた。そのため天竺への道はとても困難で行くことはできなかった。ちょう然もやはりインドへ渡ることは断念しなければならなかった。

 宋の 都の啓聖禅院には、生前の釈尊の姿を彫り出したとされる天竺の優填王(うでんおう)伝来の釈迦像があった。
チョウ然はその像を礼拝 して、日本へ持ち帰ることを思い立った。
天竺の思いをその像にたくし、さっそく台州の仏師にその像を模刻させた。太宗皇帝より賜った仏典の版本「大蔵経」5,300巻余とともに、 その釈迦像は986年7月に宋の商船にのり帰国した。
ちょう然が模刻させた釈迦像は京都嵯峨の清凉寺本尊として現在国宝に指定されている。「大蔵経」5,300巻は火災に遭い残念ながら残ってはいない。
その後、この釈迦像は三国伝来の霊験あらたかな「生身の如来像」であるとの信仰が広まって、さらに全国各地で複製された。

 ところで優填王(うでんおう)は漢訳の名前でコーシャンビー(Kausambi)又はカウーサンビーのウダヤナ王(Udayana)のことだ。コーシャンビーとは 紀元前8世紀〜6世紀頃のインドで栄えたヴァンサ国の首都のことで、今のアラハバードから50キロ離れたヤムナー河そばのコーサムにあった。

 ウダヤナ王は最初仏教を敵視していたが王妃のサーマーヴァティーの影響で釈尊に帰依し、その息子のボーディーも熱心な信者に成ったという。釈尊在世当時のヴァンサ国は、財政が豊かでコーシャンビーの3人の有力な金融業者ゴーシタ、クックタ、パーヴァリカは競って精舎を寄進したので、精舎にはそれぞれの名前が冠せられている。
大蔵経の中にはウダヤナ王がゴーシタ=アーラーマ(アーラーマは園林の意味)を訪れて問答を交わした「作仏形像経」や「 大乗造像功徳経」のように仏像がつくられるようになったそのいきさつを説いた仏典がある。

 仏典によると、釈尊が亡き母のマーヤー夫人に説法するために三ヶ月もの長い間、天上界に居られたので、寂しさからウダヤナ王は釈尊の像を刻むことを懇願する。
仏弟子目蓮は神通力で彫り師と共に天上界に昇り 釈尊の妙相を見て 栴檀(せんだん)に彫り地上に持ち帰る。釈尊が天上界より戻られたとき その栴檀の像は立ち上がって仏を迎えたという。まともにとれば仏像がそんなことをする訳がないと普通は思ってしまうが、仏典が神話の様に集合無意識の世界に属するものだとすると、あんがい夢の世界では、誰でも似たような事を経験していると思う。
「仏像を作ることは 功徳が非常に大きい」と釈尊がほめたたえたことが記されている。仏典では仏像作りを大いに奨励している。

 中国の玄奘三蔵が記した「大唐西域記」には「都の故宮に大精舎があり高さ60尺にして、内部には栴檀を刻みし仏像有り、ウダヤナ王の作るところなり」とコーシャンビーにウダヤナ王が建立した大きな仏像がありそれが仏像の始まりであることを伝えている。玄奘三蔵はこの像を高さ二尺九寸の仏像に模刻させ645年にインドから唐の都に持ち帰っている。

 ちょう然が模刻して日本へ持ち帰った天竺の優填王(うでんおう)伝来の釈迦像は、釈尊の姿を実際に見て彫った生身の釈迦像とされた。そこから霊験あらたかな釈迦像という信仰が生まれ、日本各地でこの釈迦像が100体以上つくられた。昭和28年、清凉寺釈迦如来像の体内より、絹で作られた五臓六腑やちょう然の文書が発見され現在国宝となっている。

仏像のはじまり

 仏を人の形に現わすのはおそれ多いという信仰から釈尊入滅後 しばらくの間、仏像が作られることはなかった。仏は法輪、足跡、菩提樹 などのシンボルによって示されてきた。一般の人々にとって瞑想に励み、心を制御するだけの生活は難しい。やはり在家信者にとっては礼拝対象が必要なこともあって、西暦2〜3世紀頃から仏像が作られるようになった。

 最初は仏像といわず菩薩像といっていたようだ。というのも戒律の書には菩薩を表現するのは菩薩像で仏を象徴するものは仏足石であると記されていたからだ。
戒律の「十誦律」には祇園精舎でスダッタ長者が釈尊に仏像を作ることを願い出るが許されず菩薩仏像ならよいことが記されている。いけないとされてきた仏像を作ることは戒律を破ることになり、やっぱり、ばつが悪いのだろうか。戒律に最初は菩薩像と書いてあったのを菩薩仏像と書き変えたのではないかと言われている。仏典をだんだんとその時の都合にあわせて書き加えた事がうかがえる。

 礼拝の対象である仏像が作られ仏舎利塔崇拝をおこなう出家僧が増えてきたことを、「世俗化した仏教が発展した。」と捉えたならば皮肉になるだろうか。インドではイスラム教徒の侵入したのちジャイナ教とヒンズー教は残るが仏教は姿を消してしまった。

 マハーパリニッバーナ・スッタンタによると釈尊入滅時に仏弟子アーナンダは「ご遺体をどのようにしたらよいのでしょうか?」と尋ねている。釈尊は「アーナンダよ。お前達は修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前達は、正しい目的のために努力せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ。」と答えている。

 遺骨の供養(崇拝)つまり葬儀などの儀式は在家信者(葬儀屋)にまかせて修行僧は一番大事な自分自身の修行を完成させなさいと釈尊が説いている訳だ。 ということは自分自身の修行を怠ったり、葬儀屋さんと代わらない葬式ビジネスに明け暮れている現在の僧侶は釈尊の教えに背いていることになる。お布施が少なければ「良い戒名をつけられない。」とうそぶくお坊さんの方々は少ないと思うが、坊主稼業が儲かりすぎてマンションに愛人を囲うようなあまりにも世俗的な坊さんではあきれてしまう。

 釈尊が亡くなってすぐに舎利崇拝は行われているので最初から釈尊の教えに背いていたことになる。教えに背いていることにも2500年の歴史があるのだ。釈尊が生きておられたら「仏教という宗教教団(または葬儀団体)を造った覚えはない。」とおっしゃるのではないだろうか。

参考文献 「ブッタの世界」  中村元編著 学研
     「ブッタ最後の旅」 中村元訳 岩波文庫

平安仏教

中村元

五台山
五台山の文殊菩薩
峨嵋山の普賢菩薩
普陀山の観音菩薩
清凉寺 釈迦像

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