ダライラマ法王のカーラチャクラ灌頂 3

ローサル

 クンザン峠をすぎていよいよスピティに入った。こんどはスピティ河沿いのスピティ渓谷の道を走ることになった。隣にいる妻が「グランドキャニオンに似ている。」とつぶやく。見事な渓谷美に首が痛くなるほど見とれてしまった。

 ようやく民家が現れてきた。最初の町ローサルの町だ。町と言っても約15〜6件の集落だから、日本では部落というところか。いや何軒か食堂もあるのでこのあたりではも立派な町といえるだろう。ローサルの村の家はインドではみることがないチベット様式でできた家の造りだ。窓枠に茶色で独特の縁取りがしてある。ここは降水量が少ないので屋根は平らな造りになっている。ここで車から降りてまたパスポート・チェックを受ける。軽い食事をとりに食堂に入る。スピティーの人々が我々日本人と同じモンゴロイドの顔つきをしているので、ようやくチベットに来たことを実感する。
「タシデレ」とこちらがチベットの挨拶をすると向こうからは笑顔が返ってきた。

スピティー地方はチベット文化圏の西チベットにあたり、古来チベット語で植民地を意味するガーリと呼ばれた。
10世紀の初め、吐蕃,最後の王ランダルマの子孫、ニマゴン王が西チベットのガーリに王国を築き、三人の息子のうち長男にラダック地方、次男にグゲ、プラン地方(現在、中国領チベット自治区)、3男にザンスカールとラホール、スピティ地方という三地域をそれぞれ与えたのがラダック王制の始まりと言われている。
1949年、中国の人民解放軍のチベット侵入に続いて,1950年インドが独立するとラダック・ザンスカール・スピティ地方はインド領になりグゲ、プラン地方は中国に編入されてしまい、チベットは地図から消えてしまう。
その後中国領チベットでは徹底的にチベット仏教が破壊されてしまった為に、古いチベット仏教の貴重な文化遺産がこの地域だけに奇跡的に残されることになった。もう一つこの辺境の地に貴重な仏教文化が残されたのは、荒涼とした不毛の高地と険しいヒマラヤ山脈から形成される為,外敵を寄せつけず,たとえ外敵に侵入されたとしても,この厳しい地理的条件の為に長期にわたって留まることが出来なかったという理由にもよるという。

インドと中国の国境紛争があった1965年以降1986年までスピティ地方は外国人の立ち入りが許されてはいなかった。私たちがカーラチャクラ勧請が行われるキーゴンパにようやく到着したのはすでに暗闇が降りた午後8時だった。未舗装の道路を10時間以上も走ったので、私たち全員は頭からつま先まで体中が土埃だらけになっていた。もう一つこの辺境の地に貴重な仏教文化が残されたのは、荒涼とした不毛の高地と険しいヒマラヤ山脈から形成される為,外敵を寄せつけず,たとえ外敵に侵入されたとしても,この厳しい地理的条件の為に長期にわたって留まることが出来なかったという理由にもよるという。

インドと中国の国境紛争があった1965年以降1986年までスピティ地方は外国人の立ち入りが許されてはいなかった。私たちがカーラチャクラ勧請が行われるキーゴンパにようやく到着したのはすでに暗闇が降りた午後8時だった。未舗装の道路を10時間以上も走ったので、私たち全員は頭からつま先まで体中が土埃だらけになっていた。

スピティ渓谷
チベット様式の家
サトレジ河
ヒマラヤ山脈

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