ダライラマ法王のカーラチャクラ灌頂 4

テント村

 ようやく到着した所は、荒涼としたスピティ渓谷沿いの台地に出現した巨大なテント村だった。もちろん樹木は一本もみあたらない。すでに日が暮れて時間がたっていたので肌寒い。話を聞くと日中はかなり暑いということだ。この寒暖の激しい気象の為、岩石が細かいパウダー状に風化している。そのため風が吹くとすぐに土埃がたつ。ここではしばしば強風が吹き土ぼこりに悩まされる。

 このテント村ですでに到着している予定のチベット人の友人、チャンガが、テントを用意して待っていてくれる手はずになっていた。しかし、今日はもう遅いので明日探すことにして、同行したチベット人のワンチェンさんが用意してくれたテントで、今晩は休む事にした。テントの床はむき出しの地面なのでまずは皆で小石を取り除いて寝袋しいた。テントの中は裸電球だけが一つ付いていた。どこから電気を引っ張って来たのか不思議に思う。あとで解ったのだが発電器のほかに太陽光発電のパネルが数多く、設置されていた。地面が石ころだらけなので背中が痛かったが、疲れていたこともあって、いつの間にかシュラフの中でぐっすり寝いってしまった。

 翌日、ワンチェンさんが友人のチャンガのテントを探し出してくれていた。そもそもカーラチャクラ勧請を授かりに、スピティーまで来る事になったのは、デリーのマジュヌ・カ・ティラにあるチベタンコロニーで偶然チャンガと出会った事による。

 ツェーリング・チャンガはチベットのカム地方で生まれた。1959年3月17日、中国軍のチベット侵入によりダライラマ法王はチベットを脱出してインドに亡命した。そしてダライラマ法王を追って2万人を超えるチベット人がインドへ亡命したのだ。チャンガは1959年
の11歳の時、父と母と兄弟、姉妹を置いて、たった一人で160人のチベットの人々と一緒にダライラマ法王を追ってチベットを出発したそうだ。しかし1年半歩き続けてラダックにたどり着いた時にはわずか3人になっていたという。後の者は捕まるか、殺されてしまったそうだ。中国軍に見つからないように昼間は隠れ、毛皮をまとい夜になって歩いたという。道に迷った時は58才のシャンガ・ラマがお祈りをして道を決め、その道をとにかく信じて進んで無事ラダックに着いたという。しかし折角たどり着いたのにインドでは暮らせないと一人はチベットに戻ったそうである。インドは気候、風土も言語もチベットとは異なり生活するにはとても困難だったのである。すでに今ではラマも亡くなっているので生き残ったのはチャンガ一人である。一日数ルピーの賃金の道路工事の仕事をして文字道理、裸一貫で今日まで彼は頑張ってきたのである。 しかしチャンガはそんな事を微塵も感じさせない。人なつこい顔をしていて誰からも好かれている。
彼は今ではマナリで手広く商売をしていて亡命チベット人の間ではちょっとした顔役である。

 2000年の2月にデリーで会った私たちは彼からカラーラチャクラ勧請が8月にスピティーで行われる事を知り、さらにテントも食事も心配いらないから来ないかと誘われたのだった。

 スピティーでの再会を彼は私たちを抱きしめてくれて本当に喜んでくれた。チャンガの一行はわたし達が到着する一週間まえにテント、調理道具、絨毯や商売道具など生活に必要な物を持ってきていた。

 カーラチャク灌頂が行なわれるキー・ゴンパは高さ四千メートルの高地にある。たぶん高山病の症状だろう時々頭が締め付けられるような痛みがする。動かないでいるかゆっくり歩けば何事もないが普段のつもりでズンズン歩けば、たちまちふらふらしてしまう。要注意である。無理をして倒れても困るので午前中はチャンガのテントで休む事にして、取材許可をもらいにキーゴンパに出かけるのは午後にすることにした。

巡礼者用のテント村
テントの中からキーゴンパを望む
キー・ゴンパより見下ろしたテント村

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