真理のみ!


第1章  セルフ:本当の自分 

セルフというのは本当のあなたであるところのもの。
あなたは…“それ”だ。
測り知れない“それ”から、経験や概念が現れて来る.
セルフというのは往来のない一瞬だ。
それは ハート、アートマン、無だ。
それは、それ自身の中で、それ自身に対して、それ自身で光り輝いているセルフが生命に息吹を与えるのだ。
それを探し求める必要は何もない、それは“こご’にあるのだから。
あなた自身があなたが探し求めているものだ。それが存在する全てだ。
唯−セルフのみ。

欲望だけが生まれ変わっただけであなたは決して生まれてこなかった。
何もかって起こつたことはないし、存在したものは何もない。
この何もないこと、これがあなたの本質だ。
そして、これが究極の真理だ。
あなたは完全にあなたそのもの、即ち美しさそのもの
唯一セルフのみ。

あなたの本質は、意識だということは明らかで拒むことはできない。
あなたはハートの蓮の花の中で至福に満ちて存在しているのだ。
静かにしていなさい、そうするとあなたの本当の姿が現れるだろう。
“自分を知る”ということは他の全てのものを犠牲にしても知る価値があるものだ。
他の全てのものは意識から出現する蜃気楼にすぎないからだ。

全ての生き物の中にセルフそのものが存在する。
それ故に他人を愛すると言うことはセルフを愛すること、
自分自身を愛することと同じだ。
セルフそのものが最も偉大な愛で同時に最も愛すべき愛人だ。
愛というのがセルフの魅力で、セルフがセルフを魅了するのだ。
この愛、この喜びの源泉の他に何も価するものはない。
あなた自身がどんなに美しいか見てごらん。
あなたがこの内なる美しさ、愛そのものだ

これでもない、これでもない。(*Neti、Neti。)
しかし、あなたの本質は決して拒否することはできない。
それは“今”だけに存在する。
起きていようが、寝ていようが、夢見ていようが、
唯一“今”に存在する、
唯−セルフのみ。

この現在の瞬間が光であり、セルフである。
この瞬間は束縛でも自由でもない。
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観念では捕らえられない最も貴重なものだ。
この瞬間は全てが投影される何もないスクリーンだ。
それはいつも不動で何にも影響されず時間を越えたものだ.
“究極”と“現存”の間には何の違いもない.
この瞬間に在る為には
この瞬間に在りたいという欲望も含めて全ての欲望を捨てなさい。

本質的に名前も形もない“それ”に数え切れない名前がつけられた。
存在、アウェアネス、至福、アートマン、真理、セルフ、神聖さ、美、
自由、神の愛、完全、無、意識、瞬間、無努力、ここ、沈黙、ブラーマン。
舌が“舌”という言葉を話すように、
あなたがあなたの名前を呼ぶのだ。
あなたの先入観であなたの本性が隠されないように
仏陀は否定的な言葉でセルフについて話した。
たとえば‘ANATA’とは触れることができないもの、
姿のないもの、目に見えないもの、
近づくことのできないもの、知ることのできないもの。

思考と世界が現れる以前にあなたは存在していた。
それ故に“それ”は言葉では言い表すことはできない。
セルフはそれ自身を理解する必要はない。
自由というのは自由という槻念が現れる以前にあった。
“私’’という槻念、マインド、過去が消え去った後に残っているもの、それがあなただ。
何もないということは何の概念もないと言うことだ。
それがあなただ。

平和・美・愛と同一化しなさい。
それを体験するのではなく、それと同じものになるのだ。
「私は無活動、活動は無活動から起こつて来る。
私はスクリーンだ、私は“それ“だ。
私は決して生まれてこなかったし、決して死にはしない.」このことを知りなさい。
意識そのものと同一化しなさい。
自分は誰かと知ったならこの世の中の動きは宇宙の踊りだ。
往ったり来たりするものに留まるのではなく、
自分自身に留まりなさい。
“在ること”というのは未知の領域ではない。
自分自身が自分自身に気づい居ることなのだ。
“在ること”に同一化しなさい。

エゴ、マインド、そして全ての創造物はセルフからセルフとしてやって来る。
醜悪な疑念や差別感でさえ美しい源泉から湧きあがって来る。
セルフの中ではすべきこと、すべきでないことは存在しない。
あなたは不幸に影響されることのないアウェアネスそのものだ。
波は海から切り放せないように光線も太陽から切り離すことはできない。
これと同じように、あなたは存在から離れて存在することはできない。
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あなたはこの瞬間、全てが存在するこの瞬間だ。

あなたは、存在=“在ること”とどんな違いもない。
目で見るというこではなく、全ては“在る”ということを見てごらん。
対象物を見るということではない。
単に見ることが在ることだ。

意識が元祖の母親だ。
これを知ったなら、この母親があなたの面倒を見てくれる。
彼女が、幸福、平和、永遠の生を与えてくれるだろう。
この母親を知らないとあなたは問題に巻き込まれる。
この未知の母親があなたの本性だ。
だから未知の母親のいる家に帰りなさい。
既知の母親は永遠の平和を、永遠の愛を与えることはできないからだ。

至福は永遠だ。
マインドが死んだ時、至福がわきあがる様に見えるけれども
至福は体験から来るものではない。
それはあなたの本性だ。
至福は賢者のハートだ。
至福はこの贈り物をあげようと全ての人を呼んでいる。
“あなたは全ての存在のハートの中に住んでいる。”
これが真理だ。
この真理であなたの顔は光り輝く。

庭で庭仕事をしているキングはキングのままで決して庭師ではないように、セルフは世間の庭の中にいてもセルフとして居ることができる。世間の動きの中で活動しているのはあなたであなた自身のセルフではない。
しかし、対象に執着したり何かに成ろうとする欲望の為にこれを忘れている。
すべては一体で、−体が全てだ。期待や欲望を捨てることによってこの共有の真髄に同一化したならあなたは宇宙の皇帝だ。

全てはセルフ。
あなたと私の違いは単なる言葉、単なる槻念の違いだ。
あなたの中のセルフは私の中のセルフで全ての存在の中のセルフ。
全ての源泉は同じだ、これがセルフだ、これが愛、これが慈悲だ。
セルフから離れ様としても決して離れることはできない。

“私は海、目に見える全ての姿は私の上で踊っている波だ。”これが知識だ。
波が起こるとき、海は何も失うものはない。
波が静まるとき、海は何も得るものはない。
波が遊んでいる時は海も遊んでいるのだ。
私は海、私は水、私は波。
海と水と波の間に分裂はあり得ない。
そこには何の違いも、妨げも妨げるものもない。
“私”という思考、あるいは“他”という思考を起こすことが波を起こすことだ。
どんなに波立とうと、水は水のままだ。
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だから全てをあるがままにあらしめなさい。
全てがあなたのセルフなのだから。
河が海に流れ込む様にあなたであるところのものに流れ込みなさい.
幸福、至福、存在、宇宙に流れ込みなさい。
ここにはアウェアネスのみ、セルフのみ。

たとえそれを忘れてしまってもあなたは“今、こご”にある“それ”だ。
あなたは目覚め、夢、眠りの三つの状態を通過する。
どの状態にいようともあなたはアウェアネスの意識だ。
唯一セルフのみ消えることはない。
セルフはノーマインド、ノーマインドは肉体をもたない。
ノーマインドのこの美しさから芸術や直感的洞察が生まれる。

かつて何も起こらなかったしこれからも何も起こらないだろう。
あなたはいつも完成された愛であり平和であり続けた。
変化するものは真実ではない、真実であるものは変化しない
あなたは変化と説明をこえたその秘密、その純潔さだ.
しかし、“私”に捕らわれた時、“誇り”という槻念で汚されてしまう。
“私が努力してやり遂げた”というこの“私”は、本当の“私”ではない。
本当の“私”は全ては自分のマインドの投影だということを知っている。
単に私“自身”を知っているには努力はいらないし、
これが瞑想でありサハジャつまり自然な存在の状態だ。

宇宙の塵の−つ−つの中に数え切れない宇宙が存在し、数え切れない仏陀が光り輝いている。
あなたが理解できる様にそれを説明するのは難しいがこれは事実だ。それを見ることはできる。
たとえばすべてが−つの原子から出現する、それは神秘だ。誰もこの神秘を解くことはできない。
私たちがいつもサットサンで話している“この瞬間も”アトムと同じ様なものだ。
その一瞬にあなたの全ての生をみることができる。
全ての人が本質的に仏陀なのだ。

Q:永遠で、しかも定義することができない存在を明示してもらいたい。

その存在があなただ。何故それを疑っているのかね。
悟りというのは疑わしい言葉、思考、概念ではない。
悟りというのはいつもここに有る。

“ここ”というのはこの空間にという意味ではない。
“ここ”というのはマインドが届くことができない内なる場所という意味だ。
この“ここ”というのは“そこ”の反対語ではない。
この“ここ”というのはどこでもなく、それはあなたのハートだ。
マインドが静かな時、全てはハートに帰って来る。
宇宙の全てがあなたのハートの中の一点に存在する。
この“ここ”にマインドの向きを変えなさい。
そうすると、マインドは消え去る。
そして光、知恵、愛が残ってこれがあなたとは何の違いも無いもの、
これがあなたといつも一緒にあるものだ。
Q:私が肉体でもなく、マインドでもないとしたら一体払は何なのでしょうか?
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あなたはSatyam.Shivam.Sundayamの姿をとる無形性だ。
これがあなたの姿だ:真理、善、美。
我々がここでやっていることは直接それを見るということだ。
しかしあなたはこれに向かって進んでいくのではない。
Satchitanarda。これがアートマンの姿だ:真理 意識 至福、これがあなたのセルフだ。
それを外に追い求めるのではない、“それ”は内にある。

 至福はあなたの内に。それがあなただ。
 真理はあなたの内に。それがあなただ。
 美はあなたの内に。それがあなただ。
 愛はあなたの内に。それがあなただ。

Q:本当のアウェアネスとは何ですか。

例えば花という対象物に気づいているアウェアネスが有る。
本当のアウェアネスはこの対象に気づいていることに気づいているアウェアネスだ。
それは単なるアウェアネスでその中でことが起こり、過ぎ去っても決して影響されない。

対象物や出来事に対するアウェアネスを超えたアウェアネスが有る。
あなたはそのアウェアネスでその中に対象に対するアウェアネスが存在している。

この本当のアウェアネスには名前が舞い。
名前をつけようとしたら問題が生じる。
あなたには名前が無いし、形も無い.何も見ることはできない。
“私は名前無し形無し”ということを知りなさい。
それが“私は自分のセルフに気づいている”ということだ。
純粋の意識がその中にあなたを引っ張り込むのだ、あなたがその中に入って行くというのではない。
もしあなたが入って行くというのならそれはエゴが入って行くということだ。
しかし“それ”があなたを引っ張り込む時、“それ”があなたを家に連れて帰ろうと決めたのだ。
理由は分からないがこれが起こっていることだ。
意識によってあなたが選ばれるというのは非常に珍しい。
しかし一度“それ”に引きずり込まれたらその人の旅は終わりだ。
 そう、アウェアネスに名前を与えたりしないこと。さもないとそれはある人の観察の対象物になるだろう。
意織は決して観察され得ない。
それは完全そのものだ。無限界、永遠そのものだ。
あなたはそれに溶け込んでゆかねばならない。現実にはそれは溶け込みでもない、それを言い表す言葉はない。
“それ”と同じように無垢で純粋でいなさい。そうするとあなたは“それ”によって選ばれる。
あなた自身の努力では決してできることではない。
あなたはとても美しいので花婿によって花嫁として選ばれた、と想像してごらん。
これがどのようにして事が終わるかだ。

Q:私は全ての出来事を遠くから見ている観察者のような感じがします。

この観察者は誰からも影響されない、この観察者はどんな自己証明も持たない。
名前、形を超えたものだ。あなたがこの種の観察者である時、誰もあなたに触れることはできない。
あなた自身でさえ触れることはできない。
そうすると恐柿はなくなる。森の中に独りで行くことができる。
ライオンやタイガーにあっても恐れることはない。
彼らの目の中を見つめなさい、そうすると誰もあなたを殺せない。

Q:私は超意識を一瞥したことがあります。それは意識の拡大であり、存在のセンターが存在しない感じでした。

あなたが何かを一瞥する時、あなたは一瞥を一瞥する人になる。あなたが一瞥するものは一瞥する人
の対象物である。一瞥するには、一瞥する人、一瞥、一瞥されるものがある筈だ。誰の対象物にも決し
てならない超意識をどのようにー瞥することができるのかね? 神でさえこれを見ることはできない.
なぜなら神でさえ、その帰依者が信仰する知覚の対象だからだ。この超意識の一瞥は不可能だ。それは
対象化されることはありえない。それは主体なのだから。本当のことを言えば、それは主体でもない。
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主体とも対象とも何の関係もないとき、一瞥はありえない。
 全世界が見る人、見ること、見られるもので成り立っている。しかし、超意識はこの分類には属さ
ない.誰かが自由でありたいという非常に強い欲望を持った時、それは超意識こ向かって動いていく。
そしてそれと溶け合って、“それ”そのものになる。
 蛾が炎に向かって飛んで行き、炎に口づけした時何が起こる? 蛾ではなくなる。炎は幸福に燃え
て、“私のいとしい人、こつちへおいで。あなたが来るのを待っていたんだよ”。この蛾は戻っては来な
い。炎となってしまうからだ。このようにことは起こつて一瞥はありえない。自由でありたい人は誰で
もその人を呼び続けている何かによって導かれているのだ。

Q:エネルギー、ゴールデンライト、アウェアネスの間にはどのような関係があるのですか。

ウォーターは英語、アクアはスペイン語、パニはヒンディ話。同じ実体に対して3つの異なった名前。
このように“それ”をシヤクテイ、光と呼ぶこともできる.光というのは何かについての知識を持つということだ。
光が知織だ。知識はエネルギーだ。そのエネルギーがあなたを知識に導き、全ては−つだということを知るのだ。
あなたは知識そのもの、そしてエネルギーだ。そしてこれはアウェアネスと同じことだ。
異なった人々によって異なった言葉が使われるように違いは言葉だけだ。
ある人は“自由になりたい”と言い、仏教徒なら“無になりたい”、他の人は“ニルバーナが欲しい”と言うだろう。
これらの異なった言葉は名前の無い同じ実体を意味しているのだ。
パニ、アグア、ウォーターの実体には名前が舞い。
このように“それ”をアウェアネス、光、エネルギーと呼ぶのはその人によるのだ。
しかし、“それ”は名前の舞い、形の舞い物だからそれ自身の名前を知らない。
だから名前のついたものは、本当でない何かであるに違いない。
名前や形が名前や形の舞い“それ”へと導く? −体どうして名前と形の無い物を見つけることができるのか? 
それは不可能なのだから、名前と形の舞い物を探そうと試みないことだ。
しかしこの光がそこにある。そしてこれが知識、このエネルギーがアウェアネス、そこには何の違いも無い。
シヤクティとシバは同じ物だ。−方は知識で、他方は自分はシバであると知る為のエネルギー。
エネルギーは決して絶えることはない。エネルギーはいつもそこに留まる。
形は現れたり消えたりするがエネルギ−はいつも“ここ”にあるだろう。

Q:基盤としてですか?
 そうだ、エネルギーが基盤だ。そして基盤はエネルギーによって“私は基盤だ”ということを知るの
だ.そこには何の違いも生じない。“私は‘それ’だ”というこのエネルギーの知織はエネルギーその
もの、知織そのもの、光そのもの、知恵そのものだ。これはまた“自由”とも呼ばれている。

Q:アウェアネスとエネルギーは異なったものではないのですか。
 そうだ、それらは異なったものではない。波は海から起こり、海とは異なった物のように見える。名前は違う、動きは違う、高さや幅や広さが違う。また、波は動く。そして、波は元は海であったことを忘れる。
しかし、海と波の中身は同じだ。さて、波は今ともかく“私は海だ”と思い出す。
 だから、岸に向かう波の動きをあらしめなさい。波が立って、落ちて、消えるのを許しなさい。
これが世界の出現と消滅の過程だ。しかし海は何も心配していない。
基盤、本質は波になるのを気にしないのだから、その動きは問題にはならない。

Q:それではエネルギーはいつもそこに有り続けるということですか。

 いいえ、エネルギーはいつも“ここ”に有り続けるのだ。海がある限り、海そのものの中に波が動い
て消えるのを許すエネルギーが有り続けるのと同じように。
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 Q:もしあなたが死んだ時には?
 それは波が海に消え去るということと同じことだ。死については誰かから聞いただけであなたの体験ではない。あなたは生まれて来たと誰かが言ったのを受け入れた為に、いつか死ぬということにも同意したのだ。しかしエネルギーそのもの、基盤そのものは死なない。肉体は波と同じだ。姿形は消えてなくなるが本質は不変だ。この理解がエネルギーと呼ばれるのだ。基盤に帰っていくことがシバになること即ち、不変の海と呼ばれる。

Q:どうしてすべての欲望を断つことができるのですか。
 静かにしていることによってだ。

Q:私は私の自己証明を失ったのか、それとも自己証明の無い、セルフを見つけたのでしょうか。どうか明らかにして下さい。
 あなたはどんな自己証明を失くして、どんな自己証明を探し出したのか解らないのだ払肉体との同一化が自己証明だ。その時あなたは息子になり父になり母になる。これが肉体的な自己証明だ。肉体との同一化がある限り自己証明を超えた身元を知ることはできない。

肉体との同一化を捨てない限り、
全ての身元証明を超えた身元、
つまり私“自身”という身元を持つことはできない。

これはあなた自身のセルフと同一化することであって、エゴーマインド肉体一感覚ー対象に同一
化することではない。

Q:究極の自由の中でセルフの美が永久に光り輝く為にはどのようにして私のマインドを完全に破壊することができるのですか?

至福の海でありなさい。そうしたら世界との関係は見えなくなるだろう。海だけが見えるのだ。海の外とどんな関係も持たないこと。満ち足りた水、満ち足りたあなた自身との繋がりだけだ。この充満性があなたの本質だ。これは楽しむべきものだ。海の中にいなさい。海として海だけを考えていなさい。
他に何もいらない。海だけがあなたのマインドの中に、目の中にあるべきだ。常に海の実体と繋がっていなさい。これがあなたがすべきことだ。“それ”を考えていなさい。“それ”を嗅ぎなさい。“それ”を聞きなさい。“それ”を触りなさい。そうしてあなたの戦いは終わるだろう。

Q:思考と思考の間隙は一体何ですか。

その間隙が意識だ。二つの雲の間、そこには間隔がある。それが青い空だ。思考の流れを意識的にゆっくりさせてごらん。そしてその間隙を見なさい。そうだ、その間隙をじっと見てごらん。雲よりもその間隙にもっと注意を払うのだ。最初の思考が去った。次の思考はまだやって来ない。
それが意識だ、それが自由だ。それがあなたの場所、あなたの住み家だ。あなたはいつもそこにいる。見えるだろう?
注意を切り替えなさい、ゲシュタルトを変えなさい。指を見るのではない、バックグラウンドを見るのだ。もし私がこの壁の大きさの黒板をここにおいてその上に白い点を書し、て何が見えるかと尋ねたら99%の人は小さい白い点が見えますと答えるだろう。非常に大きな黒板は見えなくてほんの小さな点、殆ど見えないぐらい小さな点は見えるのだ。
何故か? これがマインドの形づけられた思考のパターンだからだ。黒板でなくて点、空でなくて雲、意識ではなく思考。
これが教えの全てだ。いつも意識を見ること。いつ意識を見て、これが自分なのだと知りなさい。
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これがあなたの場所、あなたの住み家、“ここ”にいなさい。誰もあなたに触れることはできない。誰がここに入って来ることができるのか? あなたのマインドでさえ入ることはできない。

Q:ここでは“あなたは肉体ではない”と度々話されていますが生きていることの神聖さを体験する為にはこの貴重な肉体は必要だと信じている人たちがいます。その人たちは完全に肉体の中にいると感じることによって解放されています。

生の神聖さはあなたの内にあるブルシヤ(Purusha:根本的な霊魂)だ。“それ"を経験しなさい!それは男や女を創っている肉体ではない。あなたは男の姿、女の姿に関わらず全ての人の内なるハートのブルシヤだ。ウパニシャドや他の聖典には、このブルシヤは親指と同じぐらいの大きさだと書かれている。それはあなた自身のハートの中にあって永遠の炎として燃えている。それがあなた自身、あなたのアートマン(不滅の本当の自分)だ。それに集中して見てごらん。あなたはこのブルシヤで、男や女という性別ではないということを知るだろう。全ての人はブルシヤであるけれども誰も“それ”と
同一化することができない。他の興味の為に肉体に同一化しているのだ.誰もこの永遠のブルシヤについて聞いたことはない。これが私が話していることだ:現れるのでもなく、消えるのでもないもの。私が話しているのはそのブルシヤだ。もしあなたが“それ”になりこのブルシヤと−つになった時は、舌が話すのではなく、言葉がやって来るその源泉からそれが話しているのだ。舌は話すことができる、しかし話すことができるという力は一体どこからやって来るのか? それはブルシヤと呼ばれる源泉からやって来るのだ。私が話しているのはそのブルシヤだ。

Q:あなたの恩寵だけが私をマインドの世界から目覚めさせてくれるでしょう。自由に対するこの熱望さえもあなたの恩寵です。どうか私の本当の名前を教えて下さい。

あなたに与えられた名前の全ては両親や牧師によって与えられたものだ。これらは本当の名前ではない。あなたは名前と一緒に生まれて来たのではない。生まれた後でスーザンとか他の名前になる。あなたは名前ではない、名前があると決して考えないことだ。

   本来あなたは名前無し。
   形があれば名前がある。
   名前があるところには形があるに違いない。
   あなたは形ではない、あなたは形の中身だ。
   あなたは名前のない誰かだ。
   形だけが名前を必要とするのだから。

   あなたのハートに誰が座っている?
   それには名前があるかな?
   ハートの住人、それが本当のあなただ。
   あなたは両親から生まれて来たのではない。
   あなたは“それ”、名前の無い“それ”、
   決して死なないし、生まれない“それ”、
   永遠である“それ”だ。

   人の言うことを信じるなら、なぜ“私はそれだ”と信じないのか。
   私はアートマン、私は平和、私は愛、私は至福、
   これが信じられないのなら、このマントラを永久に唱え続けなさい!
   “私は至福”。
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Q:私が今いるこの至福に、この形を持たないものに形という考えを押し付けたくないので、どんな新しい身元証明も持ちたくありません。

名前や形との同一化を捨てる決心をしたなら、その場であなたは形の無い物になるだろう。もし身元確認という概念に触れない時、あなたは今、ここで、自由だ。あなたの名前を使う為にあなたは過去に触れる。人々はあなたを名前で呼ばなければならないがその名前はあなたの過去とは何の関係も無い物であるべきだ.仏陀というのも名前だ。仏陀を仏陀と呼ぶ時、どんな個性が頭に浮かぶかね? このように名前は、どんな執着も関係性もあなたに思い出させるべきではない。それゆえにサットサンではどんな個性とも全く関係の無い名前が与えられるのだ。人々は古い名前や過去をここに残していく。
私がミス無をここに連れてきなさいといったら、彼女をここに連れてこられるかね? 言葉はそこにある、意味もそこにある、しかし“無”を連れてこられるかね? それはできない。このようにあなたのアートマンには個人の名前がついているがそれを捕まえることはできない。それは空間を超えたもので、触れることはできないからだ。

Q:人生の中で消極的なものを拒否する必要は何も無いのですね。それらは来ては去っていくのですから。ただ執着しないでいるということですね。

この世界の全てのものは来て、滞まって、去っていく。来て、留まって、去っていかないものがあなた自身のセルフだ。

Q:求道者には3つの範疇があるといわれています。樟脳のようにすぐに会得する人、ガンパウダーのようにまもなく会得する人、湿った木のように時間をかけて会得する人。湿った木にどんな助言をしますか?

範疇はない。得るものは何も無い。あなたはいつも自由だ。しかしあなたの注意が他のものにむいている。一時的な対象物から離れて、注意をあなた自身に向けてごらん。本当のあなたはいつも“ここ”に存在する。

Q:樟脳のように燃えて“ここ”にいつもいたい。

 樟脳を火の近くに置くとすぐに着火する。あなたの決心、歓身、勤勉さ、熱心さが強烈な時、グルというのは火であなたのハートは樟脳だ。ハートの中でその火に近づくと何も残らずに燃え尽きてしまう。もしあなたが炭のようであれば、燃えるのに時間がかかり燃えた後には灰が残る。生木ならもっと時間がかかる。しかしたとえ生木でも炭でもセルフだけに注目している人は数分ですべてを終えてしまう。

Q:私の中のこの気づいていることがそれですか?

 いいえ、それではない。この気づいていることは“それ”ではない。あなたは人や物や考えに気づいている。しかしこれらの全てのものは過去に属している。過去に対するアウェアネスはそれではない。この気づいていることに気づいているそれが“それ”だ。解るかな? この気づいていることに気づいているのは誰か? 対象物に気づいている時、あなたは又、あなたがマインドの中で何かに気づいている、ということにも気づいている。そう、この気づいていることに気づいているのは誰か。頭を180度回転して、何かに気づいているそれに直面しなさい。そしてこれを知ったなら忘れてしまいなさい。
そうしないと、それは過去の体験となって、一時的な体験を何か価値のあるものとしてあなたの注意を引き付ける。気づいていることは過去に属さないのでその体験については忘れてしまいなさい。そうすると悟りにさえも執着しない世界中で一番自由な人だ。全てを忘れなさい。それが全てだ。もし憶えていると、憶えていることは記憶でこれは過去だ。

   あなたの前にやって来るものに対してその場で対応しなさい。
   それがすべてだ、これが私の助言だ。

Q:どのようにして“それ”を知ることができるのでしょうか。
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“それ”は幸福、平和、愛として説明されているがそれはそれ以上のものだ。あなたの期待を遥かに超えたものだ.期待はマインド、マインドはそれ自身存在しない。それは期待を遥かに超えたもので、この瞬間に即座に知り得ることが可能だ。そこに到着する為の大袈裟なプログラムは必要ない。努力は必要なし、方法も必要なし、単に静かにしていることだ。そうすると“それ”はそれ自身で姿を現す。
ただそれを妨害しないこと。“今”に機会を与えなさい。何億年も無駄にして来た今、この一秒を“それ”に出会う為に使いなさい。その扉を聞かせなさい。それ自身で姿を現すのを許しなさい。あなたの頭の中は自分の意見や思惑や期待でいっぱいでこの秘密が現れて来るのを見ることができない。それは啓示だ、それは黙示だ。ただ静かにしていなさい。そうするとそれは起こるだろう。瞑想によってではなく、意識の集中によってでもなく、巡礼によってでもなく、教会に行くことによってでもなく、苦行によってでもなく、ヨガによってでもない。これらの全ての方法はそこに到達する助けにはならない。
“それ”は“ここ”にある。これら全ての方法はあなたを延期のプログラムに組み込む.マインドがあなたを騙してるのだ。決して耳を貸さないこと、ただ静かにしていることだ。考えないこと。“それ”がそれ自身で姿を現すだろう。

Q:内側だけが本当ということですね。

もし内側が本当なら外側もまた本当であるに違いない。全てが真実で全てがセルフだ。

Q:マインドを超えたこの愛の深さの中に入っていく為に、あなたの最初の−押しを与えて下さい

 “超えたところ”に行きたいのかね? それなら独りで行きなさい。何も−緒に持って行かないことだ。何についても考えないことだ。思考でさえも持って行かないことだ。何も考えないというのが超えたところだ。問題はあなたが考える時やって来るのだ。私は苦しんでいると考えている、恋人のことを考えている、これら全ての考えることを絶対的に止めることだ。そうすると過去の習癖に戻って来ることはない。単に考えないこと、一人でいること。全世界が唯一思考から現れるように問題は思考から現れる。なぜ問題に巻き込まれるのかね。単に考えないこと、何も考えない時は他に何もする必要はない。これで十分だ。そして考えないでおこうと努力しないことだ。

Q:(質問者が理解して笑い出す)とても簡単です。

 超えたところからやって来るこの笑いは概念無しの笑いで普通の違いとは非常に違う笑いだ。笑うことがことの全ての終わりだ。

Q:今あなたと−緒にいるということで胸がいっぱいでとても幸福すぎてあなたの言葉を理解しようとしても私のマ
インドは動きそうにありません。

これが知恵だ。これが理解だ。

Q:以前に決して触れたことがない何か、何も無いような何かに触れたような気がします。

そうだ。これが至福だ、これが決して消え去らない幸福だ、これが何も無いことだ。これは時間の中で起こつたことではないのでこの至福に一触れしただけで十分だ。“それ”からの−光線はあなたのマインドを永久に止めるのに十分だ。あなたは非常に幸運だ。あなたに−つのスーフイーの寓話を話してあげよう。大昔の宮廷で、位の順にすべての人が皇帝のやって来るのを待っていた。そこにみすぼらしい衣服を纒った男が入って来て最上席に座った。首相がこの男に身元を明かすように命令した。

“お前は首相か?”
“いいえ、それ以上だ”と男は答えた。
15 


 
“お前は王様か?”
“私は全ての王より優れている”
“私は神よりも上にいる”と貧しい男は答えた。
“神より上には何も無いわ!!”と首相は怒って言った。
これが答えを引き出した。“その何も無いのが私だ!!”

Q:セルフが全てのものの中心ですか?

セルフには中心もないし、円周もないし、中心に瞑想しようとする瞑想者もいないし、瞑想も無い。
セルフは流動的で自然で自発的でやり手がいないので疲れも知らない。やり手というのは“私がこれをしているのだ’‥‘私はこれをしなければならない”“私は問題の中にいる”。これら全ての関係性は、肉体を通り過ぎてゆくだけだからセルフとは何の関係も無い。セルフは何にも影響されないし、全ての概念を超えたものだ。あなたは全ての出現や神や生き物に背を向けることができるがセルフには決して背を向けないことだ。あなた自身のセルフには恥ずかしがり屋でいてはだめだ。あなたは何億年もの間セルフに対して内気であり続けて来た。セルフを見ないで、見る価値の無い物を見続けて来たのだ。今あなた自身のセルフに対して内気であってはいけない。目をしっかりと開いてセルフを見てごらん。

Q:パパジ、空間だけです。!!

 素晴らしい、素晴らしい、それは空間だ、それは限界が無い。全てはこの空間の中にあり、あなたはこの空間だ!
 “私は空間だ、限界が無い”。あなたが空間である時、全てがこの空間の中にあるのだから全ての欲望はここで終わりになる。これがどのようにして空間が実体である人の欲望の全てが欲望が起こる前に満たされるかということだ。
 国のキングは“この土地、あそこの土地を買いましょう”とは言わない。キングは全てを所有して、王国の君主なのだからこんな考えは決して起こらない。この様にあなたが空間になった時は欲望の終わりだ、と言うことは苦しみの終わりだ。
 欲望が苦しみを与える。欲望が起こると、その近くに行きたい、それを達成したい、それを手に入れたい、そしてあなたはそうするだろう。そうしてあなたは幸福になる、違うかね? 欲望の対象物があなたを幸福にしたと考えるかもしれないが本当は達成した後の欲望の不在が、その無の瞬間があなたを幸福にするのだ。

   欲望無しでいることが幸福であることだ。
   あなたの源泉に帰る時、あなたは幸福だ。
   これが幸福の秘密だ。

 全ての苦しみと死を取り除く為には源泉として留まりなさい。そこでは何も存在しない、全ては完全で満ち足りている。それがあなたの本質だ。あなたは既に“それ”であり、いつも“それ”であり続けるだろう。“私は肉体”、“私はエゴ”という考えが苦しみを引き起こす。教え込まれたこの考えが存在しなかった時があったに違いない。その時、あなたは完璧であった、そして今でさえも完璧である。
頭の中に詰め込まれたこれらの考えを取り除きなさい。振るい落としなさい。そうしたらこの今の瞬間にあなたは誰かということを知るだろう。さて、どんな考えが今あなたの中にあるのかな?

Q:全てに執着していると、どれだけ苦闘しなければならないか、と気づいています。

苦闘する必要はない、苦しみというのはその藻掻きだ。どんな思考も起こさないこと。誰が苦闘するのだろう?”という考えや“私”という考えでさえも起こさないことだ。
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“私”はない、肉体はない、エゴはない、マインドはない、
感覚はない、対象はない、出現はない。

過去を振り返って、起こつたこと(出現)の全ては、感覚と感覚の知覚作用から生まれて来たのだということを知りなさい。
感覚というのはマインドが外に向かって働いているというだけだ。現実的には、マインドと感覚を区別することはできない。
感覚が無い時マインドはないマインドというのはエゴ以外の何物でもない、エゴは“私”以外の何物でもない。
そしてこの“私”というこの存在感は源泉そのものだ。今度は源泉から始めよう、どうなるか見てごらん。
“私”は源泉から湧き上がる、波が海から湧き上がるようにこの“私”を湧き上がらせなさい、全てをこの“私”に属させなさい。
“私”が起こつて、エゴになる。エゴがマインドになる。
マインドが感覚になり感覚はそれぞれの感覚に応じた対象物となる。

   これらの全てはあなたの内側で起こつている。
   これらの全ては意識の中で起こつている。
   意識の中ですべてを見る為にはあなたが意識であらねばならない。
   しかしあなたは自分は肉体だ、マインドだと思っているのでいつも問題の中にいる、
   これを見ることができない。
   これが苦しみの原因だ。

あなた自身を個的なエゴ-マインド-肉体と考えるのは傲慢だ。個人がすべてを動かしていると考えるのは傲慢だ。傲慢以外の何物でもない。なぜすべてを意識と呼ばないのか?

   全ては無だ。
   あなたは無の中で踊り手の役を演じているだけだ。
   単にこのゲームを演じなさい。
   あなた自身を個人として見るか意識として見るか
   それはあなた次第だ。
   −つは破滅的、他方は平和だ。
   平和以外に何が欲しいのか?
   存在として留まって見てごらん。

 あなたは何もコントロールする必要はない。何かが起こるだろうと期待しないことだ。

   全てが‘私”で全てが“あなた”だ。
   全てが“それ自身”でこれがあなたの本質だ。
   それについて何もする必要はない。
   全てをさらけ出して、今、舞を見てごらん。
   全てが投影されるスクリーンを見てごらん。

 映画館に行ってスクリーンに映し出された映像を見ている。山や川やロマンス、強盗の襲撃事件など…….映画が終わった時、スクリーンは川の水で濡れてはいないし、ロマンスの香りも無いし、盗賊の発射した拳銃の弾の穴も無い。スクリーンは完璧に白いままだ。この映し出された映像はあなたのマインドを横切る欲望の投影と同じだ。だから観客としてのあなたは簡単にその映画に乗めり込んで同−化されてしまうのだ。

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あなたはこれらの映像ではない、あなたはスクリーンだ。スクリーンは映画が始まる前、最中、終了後、皆同じだ。もしあなた自身が完璧で、不変で、永遠のスクリーンと同一化したなら、あなたは何が起こっても平静で、その変化に苦しむことはないだろう。逆にそれらを楽しむことになるだろう。
 存在はこの一つの潔癖なスクリーンだ。これらは全てを超えているので、挨を払ってきれいにするという作業は必要ない。悟りには生涯の修業が必要だと説く教師達こそ、彼らのマインドという挨を払つて、きれいにするべきだ。

Q:私は永久に“これ”が欲しい

 あなたは初めて“この”経験をしたのだね。過去に経験した全ての経験は消えてしまった。だから我々は“この”経験のみを永久に保ちたい。しかし“この”経験はあなたから決して離れない。以前は全ての経験が去っていった。“今、ここ”では、決して取り残されない。あなたは正にその至高の力によって握られている、だから決して取り残されるということはありえない。もう恐れる必要はない。あなたは逃げられない、決して逃げられない。この愛から逃出すことはできない(笑)。一度それに触れたら、あなたは自分を見失う。全ては解き放されて、“それ”そのものになる。川が海に流れ込んでいく時、川は即座に海になるように。

Q:それが可能だということがまだ信じられません。

 川が海に流れ込んでいく時、川は私は永久に海であり続けることができるかと自分に質問するかね(笑)? それは過去の恐れだ、その恐れは今あなたから消えていく。全ての経験は永遠ではないので消え去ってしまう。それらは想像、幻想に過ぎなかったから消えていったのだ。今、この経験は概念や知覚や想像を超えたものだそれはどこに消え去るというのか? 波は恐れているので“私は生涯波としてありたい”恐れが波のマインドの中にある。“私は無くなる、私は無くなる”波は恐れている。“私
は鮨くなる”、どこに消えるのか? どこに行くのか? 消えて次は何になるのだろう? 波が消えた時、波は波で無くなり、その本質に帰っていく:海だ。過去、波が海であった、現在、波が海である、未来、波が海であり続けるだろう永久に!!そこには時間という槻念は全くない。時間というのは無知な人のマインドの中に存在する。光や知恵の中では“私は全体から分離している、私は巨大さや完全性から分離している”という考えは起こらない、これを知らないのが無知だ。分裂はない、全てが和合で、愛で美だ。これらから逃れることはできない。あなたの無知は消え去った。これが永遠の生命、これが神の恩寵だ。

Q:はい、解ります。今無が見えます。

 素晴らしい!もし見えるなら、この見ていることが居ることだ。目を通して対象を見る時は物が歪んで見えるかもしれないが、この見ていることは居ることだ。これを見る為のもうーつの目があるのだ。
どの目を使うか、使っているのかはあなたに掛かっている。この視覚は肉体的な目とは何の関係もない。それは内在性、内なる視覚だ。その目を使うなら外側、内側はいつも同じだ。ニルバーナとサンサーラは何の違いも無くなるだろう。見るものは何でも内側にあるだろう、全ての美しさ、知恵。その目は限界を超えてみることができる。内側でもないし外側でもない。解るかな? 顔にある目を通して見ることを止めたら、他の目が開く。あなたが今ここでやったように“私”という思考をつかんで源泉に帰りなさい、そうするとその視界が開けるだろう。“無が見える”と言った時、この無が“その”視界の美しさだ。聖なる視界。あなたは理解するだろう、そして全てが美しい存在として見えるだろう。

Q:セルフの観点からすれば何もすることはないというのは解りますが私のいるこの時点からマインドを解き放し、エゴ中毒を取り除くのに何かすることはできないのですか?

 最初に、あなたの観点がセルフの観点より優れているかどうか見てごらん!もしあなたが創造者やグルやあなた自身のセルフより優れているのなら、もしアートマンよりも優れているのならあなたの観点に従いなさい。
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その結果を見なさい。セルフの観点というのはセルフだ。真理は真理、これは既に今、ここに。あなたのセルフに会うのにどんな修業が必要かね?

Q:いいえ、必要ないでしょう。しかし思考がやって来ると…‥。

 セルフは肉体より前に存在している。あなたが話すことより前に、言葉よりも前に。どのようにしてセルフに行き着くのかという概念、練習や方法という概念を捨てなさい。捨ててしまったらそこに何があるか言ってごらん。どこに居るのか言ってごらん。努力や修業の概念を持ち込まないこと。努力しようと考えないこと。私が意味していることを本当に理解したならあなたは誰か、あなたは何が欲しいか言ってごらん。
 方法なし、考えなし、マインドの坩堝をかき混ぜないこと。努力しようとしないこと。私の話を聞いたのだから今度はあなたが話す番だ。さて、あなたは誰か言ってごらん。考えないこと、努力しようとしないこと。

Q:私は神に会いたいだけです。

 だから神があなたをここに今連れて来たのだ。すべての人が神だ。しかし私達が私達の中に神を見ない限りその事実を知ることはできない。まず神をあなたの内側に見つけることだ。そうしたら動物の中にも、鳥の中にも、岩の中にも神を見つけることができるだろう。

Q:人々の目の中に神が隠れているのがだんだん見えてきました.

 (笑いながら)神は隠れてはいない.神が見えないということはあなたは神以外のものを見ているということだ。だから、他の何物も見ないで絶対的に神だけを見るべきだ。その時、あなたの目を通して見ているのが神そのものだ。あなたの重荷を下ろして、神に降伏して静かにしていなさい。そうすると神があなたの重荷を引き取ってくれるだろう。重荷をあなたの頭の上に担いで歩いている限り神はあなたの面倒を見ることはできない。そんなあなたにとっては神はは隠れているようにしか見えない。

Q:あなたは私が神だといいますが、私という一満のしずくが海と同じなのですか?

 一滴と海との間には何の区別もない。海を創っているのはその一滴の全体性だ。一滴、一滴の無数の集まりが海だ。

Q:それらは質的に同じ物ですか? あなたのノーマインドは私のノーマインドと同じですか?

 質的に同じだ。一粒の砂糖と−ポンドの砂糖、味は同じだ。そうだ、あなたのノーマインドは私のと同じだ。

Q:あなたはノーマインドには疑いが無いといいましたが‥‥。

 (笑いながら)ノーマインドには疑いが無い。何もないのだから何を疑うのかね.

Q:ノーマインドの中での経験は何ですか。

 そこには経験はない.ノーマインドの状態から抜け出した時にのみ対象に対する経験がある.過去の経験を取り除きなさい、そうするとこの瞬間には経験はない、経験すべき何物もなく、経験者もいない。
あなたは全てから自由だ。経験は時間の中で起こるがこの瞬間には時間がない。この瞬間は時間の外だ。

Q:ジャスミンと呼ばれる波はパパジと呼ばれる波に見つめられてーつになりたい、そして“それ”を祝いたい

 これらの波が海と−つになった時、祝祭が始まる。私は海ではないと考えているのは波だけだ。“私は水の中、どこにでも行くことができる”。“私には長さや幅があるので岸まで行ける”。しかし再び波は落ち込んで海となる。波の本質である水は海の本質である水と何の違いもないのだから“私は海だ”ということを知りなさい。この水が海と波をつないでいる基盤だ。基盤は波が海から分難していると考えても何の影響も受けない。
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あなたは海と何の違いもない。海は波と何の違いもない。この事実をあなたは祝うべきだ。これが分裂の終わりだ。

   波は海の胸元で遊んでいる。
   私は海と別れていると感じながら、時間の中で動き回っている。
   そして最後には波は海に帰っていく。
   波は海から湧き上がり、海の中で動き、海の中に帰っていく。
   一体性はそのままだ。
   波の動きは海にとっては何の問題もない。

海はあなたから離れた存在ではない。海は決してあなたを騙したりしない。もしこれを知っているなら、あなたは好きなように遊ぶことができる。愛は、海は、決して忘れない。もしこれを知らないとあなたは苦しむことになるだろう。

Q:昨夜、強烈な夢を見ました。その後かなりの沈黙が続き目を覚ましましたが、この夢が何を意味しているのか私
には解りません。
 夢は問題ではない。沈黙が問題だ。この沈黙が境界線だ。目覚めでもなく眠りでもない、沈黙だけが存在する。目覚めと眠りを越えたこの境界、そこでは何も経験しない。そこでは過去の記憶は存在しないし、それには名前もない。もし名前を使いたいのなら、沈黙か無が最適だ。どういう意味か分からないというのがそれが境界域、沈黙であったという確証だ。なぜなら、感覚や記憶力がはたら働いていないしエゴもそこには存在していないからだ。これは眠りと目覚めの間の空白だ。そこでは“私”‥一あなた”“彼ら”というのが無い。これは“無”と呼ばれてもよい。そこから全てが現れ、そこに全てが消えてゆく。

Q: 私は自分はライオンであるということを知っているのに、なぜ私はドンキーと一緒に歩いているのでしょうか?
私の中のドンキ一性を解放していつもライオンでありたい。
 
あなたがライオンであると知っていたらドンキーと一緒に歩いても、問題はない。ドンキーはライオンの食物だからだ(笑)。だから、彼らは一緒にいることはできない。ライオンが自分がライオンであることを忘れて、自分はドンキーであると考え出したなら、それは問題になる。あなたに洞察を与えるライオンの話をしよう。
 昔、ー人の洗濯男が住んでいた。その当時は村人達の洗濯物をドンキーの背に載せて川辺に運んだものだ。ある日、洗濯男が川で洗濯しているところへ、一匹の雌のライオンが水を飲みに来た。その時密猟者が銃でライオンを撃ち殺した。雌ライオンは死ぬ間際に子どもを産み落とした。そこへ密猟者が来てライオンの皮を剥いで去って行った。   
 ライオンの子は後に残されて、かわいそうに思った洗濯男はその子を家に連れて帰ってミルクを飲ませて養育した。さて、このライオンの子に何が起こつたか、注意して聞きなさい。
 このライオンの子は誰が自分の母親か知らずに洗濯男に養育された。そして毎日彼と一縮に川に行つた。遂にこのライオンは大きくなって、洗濯男はこのライオンのドンキーに洗濯物を担がせ始めた。
このライオンは他のドンキーと一緒に草を食べ始めた。
 なぜなら人は一緒にいる人の習癖を見習うものだから。子どもが煙草を吸う人と一緒にいると同じように煙草を吸い出す。このようにして習癖というものが形作られるのだ。
 ある日この“ドンキー”は他のドンキーと一緒に野原で草を食べていた。一匹のライオンがこれを見て言った、“一体全体どうしたことか? どうしてあのライオンはドンキーと一緒に草を食べているのか? ライオンの餌はドンキーだ。しかしあのライオンはドンキーと一緒に草を食べている。近寄って見てみようとするが。ライオンが近づいた途端、この“ドンキー”も含めて全てのドンキーは逃げ去った。ライオンは素早く、この“ドンキー”の首根っこを捕まえた。“どうしたのだ、お前はライオンだ。
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それなのに私を恐れてドンキ-達と−緒に逃出した。お前と私は一緒の家族に属するのだぞ!”。“いいえ、ライオン様、どうか嘘をつかないで下さい。私はドンキーです”と年上の思慮深いライオンにとらわれた若いライオンは震えながらそう言った。“私はドンキーです。どうか私を食べないで下さい。私の兄弟達が私を待っています。どうか許して下さい。どうか冗談を言わないで下さい。私は自分がドンキーであるのを知っています。“お前はライオンだ。お前がドンキーだと考えるのはばかげたことだ。”と賢いライオンは言った。“どうして私がライオンであると信じることができましょう。私はドンキーです。”そこでこの賢いライオンはこの“ドンキー”を川に連れて行って“水の上に写ってつているお前の顔を見てごらん、お前の顔は私の顔と同じではないのか?”。
 この“ドンキー”は叫んでいった。“確かに私の顔はあなたの顛と同じだ!!”。“今度は口を開いて私のように吠えなさい”。この“ドンキー”はどのようにして吠えるのかしらなかった。誰も吠え方を教えなかったので、他のドンキー達と−緒にロバのように鳴いていた.しかし、吠えることはライオンの本性だ。そこでこの“ドンキー”は口ー杯あけて吠えたのだ。その途端、この“ドンキー”はライオンになった。この吠え声が、本当の自分についての疑いを拭い去ったのだ。そしてこのライオンはドンキーを食べる為にその後を追っていった(笑)。
 さて問題は このドンキーがどのようにしてライオンになったのか? 即座に彼はライオンになった。何がこのドンキーをライオンにしたのか? 吠えたことだ。さもなければいつまでもロバのように鳴いていた。
 このように、あなたはあなたを川に連れて行き、あなた自身の顔を見せてくれるサットグルが必要だ。あなたはドンキーではないが肉体に束縛された人々のドンキー的社会に住んでいる.“私は束縛されている、私は苦しんでいる、私は死に掛っている”という人々は全てドンキーだ。ゲルは“あなたは束縛されていない”と告げる。“私は自由だ”とライオンのように吠えなさい.それがドンキーとライオンの区別をつけるのだ。しかしあなたは“メー”とやぎのように鳴いているだけだ。というのもこれがあなたがすむ社会の習癖だからだ。悪い連れ合いをもつとライオンでさえドンキーになる。あなたは、ドンキーのような両親の下で育った。これが違いを作るのだ。
 あなたが私の前に来る時は、私は無理にでもあなたの顎を開かせて吠えさせる。そうしないとドンキーはライオンの前にとどまることはできない。
 自分の汚物の中にいるのを止めなさい。ライオンになりなさい。それはあなた次第だ。延期して、大人になって、年を取って苦しむだけだ。ドンキーがしていることをあなたはしているのだ。誰かがあなたに汚れ物を担がせて、洗濯屋があなたのボスになるのか? 違う!!いつかあるライオンがあなたを見つけてあなたはライオンになるだろう。あなたは既にライオンなのだから。ドンキーは誰もライオンにはなれない。

   歪んだ愚かな社会だけがあなたをドンキーにするのだ。
   感覚はドンキーで、あなたの本性はライオンだ。
   永久で生まれずにある意識だ。
   ライオンのサットグルがあなたを意織の湖に連れて行き、
   あなたの本当の娠を見せてくれる。
   “あなたは既に‘それ’だ’、
   これがグルが言うべき全てだ。

 私の親愛なる友よ、あなたは自由だ。誰が“あなたは縛られている”と言ったのかね? 考えてごらん、誰もあなたを縛ったことはないし誰もあなたの足に鎖をつけたことはない。 あなたはただ“束縛されている”と考えているだけだ。そしてその“考え”が束縛になる。もし“私は自由だ”と考えるとあなたは自由だ。それはあなた次第だ。しかし“私は自由”“あなたは自由”は唯一思考だ。もしあなたの思考が落ちた時、あなたは目覚めた人になる。
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Q:私を川に連れて来て下さって有難うございます。しかし、私は口を開いているだけで吠えてはいないのです。

 口をあけてあくぴをするのは眠たい時だ。吠えるということは目覚めるということだ。ライオンが吠えている時はライオンが起きているという証拠だ。森の動物達、鹿や兎達はその吠え声を聞いて逃げ回る。しかしライオンがあくぴをすると誰もがこう言う:“ライオンは眠っている、さあ餌を探しに行こう”と。吠え声を聞くと誰もが穴の中に隠れてしまう。
 このようにあなたが吠えるとマインドの習癖や怠性やあなた自身を見つけるのを妨害している平和の盗人、全てが逃出してしまう。そうしてあなたは目覚めるのだ。その吠え声とは“私は自由だ!”肉体やマインドや目を肥やす為に何かを探しているのはあなたはあくびをしているということだ。
だからあなたは吠えなければならない、“私は自由だ!”。吠える為にはどこへ行くべきか? あなたのエゴが眠っている、この時がサットサンにいく最適な時だ。完全に眠っている人は彼らのセルフの吠え声を聞いたことがないので今なお眠り続けるだろう。そういう人たちは時機が熟していないのでサットサンに連れて来る方法はない。そういう人たちは眠らせておきなさい。しかしあなたは目覚めていなさい。サットサンにきなさい。そしてライオンのように吠えるのだ!!

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