マグダラのマリアによる福音書


Vol.1 よみがえるキリスト教


Marie Madeleine/Guido Reni 1635

以前に、カトリックの信者で聖書に疑問を持っているという非常に知性豊かな女性の方と話をしたことがあった。どうして疑問があるのか尋ねると聖書の教えに男女の差別があるからだという。

新約聖書「ガラテヤ人の手紙」によると「そこではもはやユダヤ人やギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆イエス・キリストにおいて一つなのです。」 とイエスの弟子パウロは男女平等を高らかに宣言している。キリスト教は神の前では平等なのだ。

しかしパウロ殉教後に書かれた新約聖書「ペテロの手紙」には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」と男女の上下関係を認めている。

この時代の社会は男性中心の社会が強固に確立していた。この当時の人々は父権社会の強い条件付けを受けて育っているので聖書の書き手はその影響化に置かれてしまったのである。

「聖なる者たちすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たち には語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で夫に聞きなさい。」
(第一コリント人への手紙)

ユダヤ・キリスト教の聖書には男性原理が見られるが最初からそうだったわけではなく、本来、女性性の側面も持っていた。

古代イスラエルではヤハウェにアシェラという妻がいたことが解って来た。発掘調査によってヤハウェの妻の名が書かれた碑文が発見されたのだ。古代オリエントではグノーシス派の伝統と同じく、父と母と子の三位一体が見られ、子は父と母の代理であった。神は父でもあり、母でもある。神には性差はなかったがキリスト教の正統派の人たちによって、母性は排除され男性だけの父と子と精霊の教義になったのである。

異端とされた聖書外伝の「ヘブル人の福音書」には「わたしの母である精霊は、わたしの髪をつかんで、偉大なタルボ山へ連れて行った。」とある。「聖霊」を表すギリシア語は男性名詞なのだが、 ヘブル語で霊(ルア)は女性名詞なので精霊は女性を表してもいたのである。

初期のキリスト教はマグダラのマリア派(グノーシス派)とペトロ派(正統派)の間で論争があった。そのため325年にトルコのニカイアで会議が開かれ、最も政治力が強かったペトロ派が多数派をしめ女性を排除した父と子と精霊の三位一体の教義が正統とみなされた。女性的なマグダラのマリア派(グノーシス派)は教会から破門され異端として排除された。父権社会の中で女性的なキリスト教文献は修正、削除され歴史から姿を消していった。そしてペトロ派(正統派)によって教皇を中心とした教会の権威による統治が現代まで続いたのである。

以前から「マグダラのマリアによる福音書」は3世紀頃の古文献によって、存在は知られていたが1500年間内容は不明だった。1945年にエジプトでグノーシス派のテキストを含むナグ・ハマディ文書が発見された。「マグダラのマリアによる福音書」はそれに先立つ19世紀に突然、ドイツ人のカール・シュミットによってコプト語でパピルスに書かれた「ベルリン写本」がカイロで発見された。そして解読の結果、冒頭の部分が1896年に正式に「マグダラのマリアによる福音書」と認定された。正統派によって破棄されたはずの初期キリスト教の多様な姿が現代によみがえったのだ。その後、「マグダラのマリアによる福音書」は2つのギリシャ語の断片が発見され1955年に出版された。しかし、すべて発見された訳ではなく「マグダラのマリアによる福音書」の半分近くの写本は未だ見つかっていない。

しかし、「マグダラのマリアによる福音書」は欠落しているが、その内容はキリスト教の正統派の人たちにとって、非常に危険な存在であったことがわかる。「マグダラのマリアによる福音書」は女性の智慧を表す女神ソフィアが人々の内にあることを強調する。深い智慧に到達することが救いの道なのである。 「ダビンチコード」がベストセラーになり、マグダラのマリアの存在に一般の多くの人が気がつくようになった。隠されて来たキリスト教の女性原理が現代に復活してきているのだ。

Vol.2 物質界との姦淫


Mary Magdalene/Orthodox icon

残された「マグダラのマリアによる福音書」断片は弟子の物質についての質問から始まる

『(欠落)それで物質は解消されようとしているのでしょうか、それともそうではないのでしょうか。』

『  救い主が言った、「いかなる本性も、いかなるつくり物も、いかなる被造物も、存在しているのは彼らの互いの内に共に組み合わせられてであり、それら個々のものそれ自体が再び解消されようとしているのは、それらの根へとである。なぜなら物質の本性が解消し果てるはその本性のもの、それだけへとだからである。自らの内に聞く耳のある者には聞かせよ。」』「マグダラのマリアによる福音書」より

イエスはまるで華厳経の教えのように、物質は相互に関連しあって一体であると答えた。そしてすべての物質はその本性から産み出され、その起源の要素に分解し本性に戻る。本性を虚空(アカシャ)に置き換えると、これはもうほとんど仏教の華厳経の教えや宇宙物理学の量子真空の話である。

「微小なる世界はすなわち大世界であり、大世界がすなわち微小なる世界であると知るのである。広大な世界はすなわち狭い世界であると知り、狭い世界はすなわち広大な世界であると知り、無量の世界は一の世界に入ることを知り、一の世界は無量の世界に入ることを知り、(中略)
一切の世界はあたかも虚空のごとくであると知り、一念のあいだに一切の世界をことごとく知りつくそうとおもうがために、菩薩は、無上の悟りに向う菩提心をおこしたのである。」
『華厳経 初発心菩薩功徳品』

「宇宙はゼロ・ポイント・フィールドの波動によって時間と空間を超えてすべての物質と相互に結びついている。通常のエネルギーが消失したゼロ点の場、量子真空とも呼ばれるゼロ・ポイント・フィールドには宇宙のあらゆるすべての情報が刻み込まれている。そのエネルギー場の波動パターンから素粒子が生まれ物質が生まれ、宇宙が誕生した。ゼロ・ポイント・フィールドは宇宙の遺伝子情報が記憶された母宇宙だ。」 ラズロ「叡智の海・宇宙」日本教文社


素粒子の生成と消滅のコズミックダンス

1920年代より量子力学という学問が発展してきた。それにより古典的な物質の概念は完全に崩れ去ってしまった。

物理学者が素粒子や光のエネルギーを調べると奇妙な振る舞いをした。光は波動と粒子の二つの性質を持っているが、同時に二つの性質を測定することが不可能なのだ。位置を測定するとエネルギーが、エネルギーを測定すると位置がわからなくなる。学者が70年以上議論しているが波動の姿を見せるか粒子の姿を見せるかはわたしたちがどのような種類の問いかけをするのかにかかっているというのだ。

波動でもあり粒子でもあることを非局在性と呼ぶ。非局在性の思考実験に有名な「シュレディンガーの猫」がある。まず、一匹の猫を捕まえて有毒ガスが何時噴出するか判らない装置を仕掛けた箱に猫 を入れる。この箱を開けた時には猫は死んでいるか生きているのどちらかだ。有毒ガスが出れば猫は死に、出なければ生き続ける。量子力学ではそうしたことはありえない。箱が閉されているかぎり、そこにあるのは生と死の確率的な重ねあわせである。すべては波動関数の重ね合わせだから猫は生きていてなおかつ死んでいるのだ。何とも複雑だ。物理学は岩から水蒸気になったのだ。

アインシュタインは量子力学はどこか本質的な所で間違っているといい、ボーアは「粒子とは何かと問いかけること事態が間違っている」といった。量子力学は観測を扱うもので観測されるものを扱うものではないとウィグナーは述べた。ハイゼンベルクは世界は物質的な構造ではなく数学的な構造で作られているといった。究極の物質を探した科学者は困惑した。

量子力学ではもはや孤立した実体というものは存在しないといっているようである。観測するという行為自体が素粒子の状態を変えてしまうのである。観測すれば二度と同じ状態にならない。科学では客観的に客体を観察し記述しなければならないが、素粒子のレベルでは私という観測者も観測されるものに影響をあたえてしまうので観測者と観測されるもの両方含めた全体が問題になってくるのである。もはや世界を客観的に観察することは出来ず世界を主体と客体の相互作用としてか捉えられないのだ。

『 ペトロが彼に言った、「あなたはすべてのことを私たちに告げて下さいました。もう一つのことを私たちに言って下さい。世の罪とは何ですか」。』

『 救い主(イエス)が言った、「罪というのは存在しない。本性を真似たこと、例えば姦淫をあなたがたが行うと、これが罪と呼ばれるが、存在するのはその罪を犯す人、つまりあなたがたなのである。このゆえにこそ、つまりその本性の根のところへと本性を立て直そうとして、あなたがたの領域のいかなる本性のもののところへも、善そのものが来たのである。」』
「マグダラのマリアによる福音書」より

「マグダラのマリアによる福音書」の前半は大量に欠けていてここの場面は、後の内容から救い主が復活して出現した場所とされる。ペトロは物質は分解すると聴いて、「罪とは何ですか」と質問する。イエスは罪は本当には存在しない。と答えた。物質は本性に帰るだけだ。本性には罪はない。イエスはあなたがたが姦淫を行なう事によって罪になるという。「姦淫を行なう。」は比喩(メタファー)で、つまり心が物質的な次元に囚われると罪になるのだ。霊的な本質から浮気して物質界と交わることが姦淫である。

江戸時代の禅僧 白隠和尚は 座禅和讃で「自性即ち無性にて」「 悪趣何処(あくしゅいずく)に有りぬべき」と罪などどこにもないとうたった。心が執着から離れれば生きているこの世が極楽浄土(天国)なのだという。

『  彼(イエス)はさらにそれに付け加えて言った、「このゆえにこそ、あなたがたは病気になって死ぬのである。なぜならあなたがたは自分をあざむく者を愛するからである。理解する人には理解させよ。』「マグダラのマリアによる福音書」より

自分を欺くもの、物質界に執着するから人は病気になって死ななければならない。体は物質で出来ている。物質はいずれ滅びてしまう。だから霊的な本質である本性を確立する為に「善そのもの」が私たちの所へ来たのである。真の自己を確立するには自分を欺くものから離れなければならない。永遠のものは物質的な世界ではなく霊的な領域にある。

Vol.3 物質界の苦しみ


Icon of St. Mary Magdalene



『その物質は一つの苦しみを生み出した。その苦しみは似たものを持たないものであり、本性に反するものから生まれて来たのである。そうなると、物体全体の中に不安定さが生じるものである。このゆえにこそ、私はあなたがたに『あなたがたは従順なものであれ』と言ったのである。そして、あなたがた従順でないものは、本性のさまざまな面に直面して、従順なものであれ。自分の中に聞くための耳がある者には聞かせよ。」』「マグダラのマリアによる福音書」より

ギリシャのディオニュソスは別名バッコスと呼ばれ、神話ではゼウスと人間の女性セメレとの間に生まれた半神半人のブドウ酒の神であった。この神には狂乱した女性たちが付き従っていて、神に憑かれ熱狂して乱舞する女性達は「バッカスの巫女」と呼ばれた。人間はディオニソス(魂)とタイタン(肉体)の混合物なので肉体を清めて魂を解放させるのがディオニュソスを受けついだオルペウスの教えである。解放を解脱、ニルバーナ(涅槃)に置き換えると仏教に近づく。プラトンの師ソクラテスは「私には1種の神的で超自然的(ダイモニオン・霊)な声が現れる」と語っておりプラトンは「神憑り」を神から授かって与えられた狂気として善いものと考えていた。プラトンはサイキック現象をよく理解していたしソクラテスはあきらかにサイキックだった。

プラトン主義以外の古代ギリシア人は死後人間の魂は「影」のような存在になって冥界にとどまり「二度と生き返ることがない」と信じていた。「死んでしまえば、それですべて終わり」というのが普通の考えだった。プラトンは「在るもの」と「成るもの」、すなわち永遠不変なものである(イディア)と変化するもの、創造されたもの(物質界)を分けて考えていた。真の知識は永遠不変な非物質的なものの中にある。物質は滅びるが人間の魂は神々と同じように永遠不滅であるとプラトン主義、グノーシスでは考えた。プラトンはイディアの影のような物質的な世界でも役立つ善いものと考えていた。しかしグノーシス主義では物質的な世界を苦しみと死に結びつけて徹底的におとしめた。この物質的な価値を低くすることにはこの世の権威、支配者を姦淫する者として非難する効果があり、人々の関心をこの世から霊的な世界へと注意を向けさせることが出来た。


Vol.4 それを探し求める者は見いだす


Icon of Mary Magdalene

 祝された方(イエス)はこれを言ってから、彼は彼ら皆に言葉を送った、次のことを言って、「平和があなたがたにあるように。私の平和を自分たちのために獲得しなさい。護りなさい。何者にもあなたがたを惑わさせるな。その者が『ここにいる』とか『そこにいる』というようなことを言っても。

 人の子がいるのはあなたがたの内部なのだから。あなたがたは彼の後について行きなさい。彼を求める人々は見いだすであろう。
「マグダラのマリアによる福音書」より

心を混乱させる罪と死の苦しみは物質的な外側からやってくる。「ここにある。そこにある。」と外側に注意を向けさせ惑わす者から道をそれないように、イエスは自分の内側に平和を探すように諭した。

人の子が雲にのって助けに来ると期待するのはグノーシスでは間違っていると考える。人の子は共観福音書でいわれるような世の終末に天から現れる超自然的な存在としての人の子ではない。「マグダラのマリアによる福音書」のコプト語によれば「人間の種子」というのがより近い意味だと言う。つまり人の子は人間の持つ霊的な本質の事を指す。人の子はインドではさしずめプルシャかアートマンになるだろう。

人の子は外側ではなく内部にある。 「従いなさい。」とイエスが言った。「従う」は合せるともとれる。したがって「人の子に従う」は霊的な本質に自分を合せることとなる。「それを探し求める者は見いだす。」とイエスは弟子に保証した。それは真の自己を成就することにほかならない。

「闘技者トマスの書」でイエスはこう述べた。『自らを知り、お前が何ものなのか、いかにして存在しているのか、いかなる存在になるのか、学び、知りなさい。・・・・・・・・・・お前はすでに認識に達していた。そしてお前は「自己を知るもの」と呼ばれるだろう。自己を知らなかったものは、何ものも知らなかったが自己を知った者は同時にすでに万物の深淵についての認識に達したからである。』

グノーシスの救いとは物質な世界から魂を解放させることにある。伝統的な教えの罪と呵責からの解放ではない。魂が物質的な世界に巻き込まれる事によって罪ある者となる。グノーシスの考え方では人間は光の世界に属しているので本質は救われていると考える。それには霊的に肉体的に浄化し、意識化して物質的な誘惑から離れ、覚醒した者にふさわしい生き方にそわなくてはいけない。

グノーシス主義はインドのサーンキャ哲学やパタンジャリのヨガスートラの教えに近い。プルシャ(魂、神我、霊我、真我、純粋観照者、見る者、アートマン、真実の自己)はプラクリティが作り出す物質的な現象世界と同化しているので、それを止めて、プルシャが本来の観照者に戻るのがヨガの目的なのである

Vol.5 魂の成熟


Icon of Mary Magdalene

「あなたがたは行って、王国の福音を宣べなさい。
私があなたがたのために指図したこと、それをこえて何かを課するようなことをしてはならない。法制定者のやり方で法を与えるようなことはするな。あなたがたがその法の内にあって、支配されるようなことにならないために。」
「マグダラのマリアによる福音書」より

マタイ伝24章では福音を述べるように言ってから、弟子に注意をあたえ、人の子が到来する事を告げるのだが「マグダラのマリアによる福音書」では注意を与えてから、人の内部にある人の子(人間の持つ霊的な本質)の存在を保証して、最後に福音を述べ伝えるように指示する。マタイ伝での人の子は雲に乗って外側からやって来る終末論的な最後の審判者だが「マグダラのマリアによる福音書」では神の国と人の子は内側に探し求めるようにというメッセージになっている。

魂は本来、光の世界に属していたのだが身体の中に投げ込まれると共に眠りに陥り、夢にうなされるがごとく、恐怖と混乱、不安定と疑惑と分裂を経験する。グノーシスは魂の覚醒を呼びかける。「酔いと眠りと神に対する無知に自己を明け渡している者よ、目覚めるのだ。ロゴスなき眠りに魅せられた、酩酊の様をやめるのだ。」(ヘルメス文書)

グノーシス派の文書ではまず最初に内部に人の子を見いだして自己を覚醒させてから神の国の福音を述べ伝えるのである。

仏教の探求の旅ではまず真実の仏法をもとめて他国へ渡り、聖地を巡礼してこころの浄化をはかり、仏典や師を求める「求法(ぐほう)の旅」をする。そして悟りを開いてから今度は自分が体得した境地を他の国の人々に伝える「弘法(こうぼう)の旅」に出るのである。

共観福音書と「マグダラのマリアによる福音書」とでは神の国の福音を宣べる順番が逆なのである。

正統派の教えではイエスは人類を罪から自由にする為に来たのであるが、「マグダラのマリアによる福音書」では物質と姦淫して苦しむことから霊的に覚醒させる為にイエスは来たのである。掟は人を縛りつける支配の道具にすぎず、ここでは神的な意味はない。

「どのような掟も定めてはならない。・・・・・・あなた方がその掟に縛られることにならないように。」とイエスは言った。霊的な成熟は外側の規則を通してではなく、内側に求められるものだからである。

正統派のキリスト教では洗礼を受け教会の権威に服従し、教会にそった教義に信仰を置くものが救われるのであるが、グノーシスは形式的な洗礼には意義をみとめなかった。無知の中に住んでいた事を認め、自己を解放し、自分が何ものかを知り、神を見いだしたとき、彼は救われると説く。霊的な成熟をとげなければ真のキリスト教徒ではないのである。

Vol.6 神の国の福音


Icon of Mary Magdalene

『・・・・・・・・・・・・・彼(イエス)はこれらのことを言った後、去って行った。

 すると彼らは悲しみ、大いに泣いた、「人の子の王国の福音を宣べるために異邦人のところに行くといっても、われわれはどのようにすればいいのか。もし彼らがあの方を容赦しなかったとすれば、このわれわれを容赦することなどどうしてありえよう」と言って。・・・・・・・・』
 マグダラのマリアによる福音書」より

復活したイエスが去ったあとの弟子達の態度は共観福音書とは随分と異なる。「彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえた。」とルカによる福音書での弟子達は非常に喜んでいる。

「マグダラのマリアによる福音書」での弟子達は悲しみに沈んでいる。自分たちがイエスと同じく十字架に磔にされる事を恐れ不安に怯えている。弟子達は肉体に執着して自己が誰であるか知らない。覚醒していないのだ。そしてどのように福音を伝えていいのか戸惑うばかりだ。イエスの教えは物質的な肉体の執着から離れる事が死と苦しみから解放される道なのだが弟子達は理解していないようだ。これでは福音など伝えようがない。ここではイエスの死と復活による救いはもたらされてはいない。


Vol.7 森羅万象を知る女性


Icon of Mary Magdalene

『 ・・・・・・・・・・そのとき、マリアが立って、彼ら皆に言葉を送った。彼女は自分の兄弟たちに言った、「泣かないで下さい。悲しんだり、疑ったりしないで下さい。というのも彼の恵みが今後もしっかりとあなたがたと共にあり、あなたがたを護ってくれるのですから。それよりもむしろ、彼の偉大さを讃えるべきです、彼が私たちを準備し、私たちを『人間』として下さったのですから。」
マリアはこれらのことを言って、彼らの心を善い方の方に向けた。そして彼らは救い主の言葉について議論し始めた。・・・・・・・・・・・・・・・・』
「マグダラのマリアによる福音書」より

ここで 初めてマグダラのマリアが登場する。マグダラのマリアが正統派の共観福音書に登場するのはわずか2カ所である。イエスとの最初の出会いと復活したイエスとの出会いの場面である。復活前に名前が出て来るのは「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリア」と悪霊のキャッチコピーつきで書かれたルカ伝8章ただ一ヶ所だけである。そこにはなぜ名前がついたのか由来もエピソードもイエスの会話もない。そして復活したイエスに最初に出会うのはマグダラのマリアだが福音書ではそれ以降、彼女の存在は全く出て来ない。マグダラのマリアの存在は新約聖書から正統派によって意図的に排除された可能性がある。そしていつのまにかマグダラのマリアは悔い改めた娼婦というイメージが出来上がった。マリアが娼婦であるとは聖書のどこにも書かれていない。聖母マリアのカラーイメージは青と白だがマグダラのマリアの絵画はきまって緑のドレスに赤のマントの姿で表された赤緑の性的なイメージで描かれているのである。

グノーシス派でマグダラのマリアは森羅万象について知る最高に優れた女性として共通に認識されていた。 「マグダラのマリアによる福音書」では他の弟子達は凡庸だがただ一人マリアだけが、イエスのいう真の人間に到達している。だからマリアだけがリーダーシップを発揮して他の弟子達を鼓舞し、こころを善すなわち自己の霊的な本質に向けさせる事が出来るのだ。マリアに促されて弟子達は質疑応答をはじめた。


Vol.8 イエスの復活


Jesus Rejecting Mary Magdalene's Friend Request, 1834
Alexander Andreyevich Ivanov


3世紀までの初期キリスト教での正統派はむしろ異端だった。そのくらいキリスト教徒の大半はグノーシス主義を信じていた。正統派のキリスト教徒は信条を告白し、洗礼を受け、礼拝に参加すれば誰でもキリスト教徒の一員になれた。グノーシス派は洗礼や信条や礼拝の型式的意義を認めず、個人の霊的成熟を求めた。真の自己である神を求め、グノーシスを見いだしたものが真の教会に属するとした。個人的、霊的成長にのみに関心が在り、物質的な教会には関心が薄かった。正統派は正典を定め霊的理解力や洞察力がなくとも、教会組織に従う者であれば誰でも受け入れていった。正統派は少数派だった。

312年ローマのコンスタンティヌス帝は夢の中に現れた正統派キリスト教のシンボルマークをかかげて戦いに勝ち、キリスト教を国教とした。ローマに拠点があった正統派は財政上の特権や政治的な力を蓄え、組織化をおしすすめ、各地のグノーシス派を圧倒していった。6世紀には膨大なグノーシス派の文献はほぼすべて破棄され失われた。正統派が生き残れたのはコンスタンティヌスが戦いに勝ちローマ皇帝に即位したことも大きい。

キリスト教正統派の重要な教義にイエスの復活がある。「全ての人間の原罪を背負って、イエスは十字架上で死んで復活した。イエスは、我々の救い主である。」この使徒信条を信じない者は、真のキリスト教徒ではないとされる。ところがグノーシス派はこの考え方を愚か者の信仰と呼んだ。当然正統派はグノーシス派を目の敵にした。


The Crucifixion/Carl Bloch

正統派はイエスが肉体の形で墓から蘇ったと主張する。ヨハネ伝20-27では弟子が信じないのでイエスは「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と命じてトマスがようやく信じる場面が出て来る。正統派はあくまで物質的な肉体が復活することにこだわる。

近代の考え方からすればキリストが死んで葬られ三日後によみがえるには無理が在る。やはり2000年前も「矛盾でありえないこと。」と思った人はいた。思考を停止して、ただ信じなさいではカルト教団となんらかわりがない。その為に象徴的に解釈する複雑なキリスト教神学が必要なのである。

キリストの神性と人間性の解釈には、大きく二つあった。一つはイエスは神によって選ばれた人間であり、神によって子の位置におかれ、神の右側に置かれたもの。二つ目はイエスは霊的存在でやがて肉をまとい、地上で業を成就した後は天に返ったというもの。イエスが神に継ぐ霊的存在か神と一体化した存在とかでは様々な解釈ができる。

いずれにしてもイエスは人間の姿であらわれた物質を超えた(霊的、神的、天使的)存在であることには変わりがない。実は対立を越えた視点では正統派とグノーシスには大きな違いがないことになるのである。

新約聖書には肉体の復活を文字通りに解釈できる物語と異なる物語が混在している。(使徒行伝9-4)でパウロは突然、天から光がさしてイエスの声を聴く。(使徒行伝22-16)でのパウロは夢うつつの状態でイエスに会い話を聞く。どちらもイエスは肉体を伴っていない。
(ルカ伝 24-31)では弟子が見知らぬ男と話し合い、夕食をともにする。祝福してパンを渡す時に突然、イエスだとわかる。するとイエスの姿が見えなくる。その男は一体どこへ消えたのだろうか。それともイエスはその男にチャネリングしたのだろうか。それともアストラル界での出来事だろうか。

パウロは(第1コリント15章)で最初にイエスの肉体の復活を説いているが(第1コリント15-50)「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」ではしっかりと肉体から精神的存在への変容を説いている。
宗教学のエレーヌ・ペイゲルスによると肉体の復活の教義は政治的なもので使徒ペテロの後継者である正統派の教会の権限と関係が深いという。マルコ伝とヨハネ伝は最初の復活の証人はマグラダのマリアだが正統派ではペテロが最初の証人であったと主張する。


The Transfiguration/Carl Bloch

復活したイエスは(マタイ伝28-18)授けられた権威を弟子に与え肉体の形で天に昇って行った。復活したイエスを直接に経験したのは12人の弟子のみである。イエスの弟子以外、これから誰も二度と復活したイエスを経験する事は出来ない。そして使徒ペテロの権威を受け継いだ唯一の正統な継承者が教会の司教であるとする。これこそが正統派がだした聖職者の統治システムの答えだった。それは成功を治め今でもローマ法王は漁師ペテロの権威を引き継いでいる。

正統派はイエスの死後ペテロが教会の指導者だったと主張するが、失われた別な資料ではイエスの弟ヤコブが最初の証人であったとされている。「マグダラのマリアによる福音書」でのイエスの後継者はマリアである。初期キリスト教は教義や正典が定められてはおらず30以上もの福音書が存在した。それぞれの宗派は勝手に独自の解釈を持ちそれらを正典であると主張した。正統派の定めた福音書はその中のごく一部なのである。その他はすべて破棄された。1543年トレント公会議でカトリック教会は正典の一覧を定め、それ以後、追加や削除は認められなくなった。

正統派の考えはグノーシス派を悪魔の手先として攻撃して排除し、残された初期キリスト教の多くの主張の一つにすぎない。正統派の文献はグノーシス派に対立した正統派の教父達によって政治的にのこされた一つの解釈にすぎないのである。

イエスが死後、弟子の前に現れたという事では一致している。復活したイエスは肉体で現れたのか、霊で現れたのか、ではキリスト教徒の間に論争があった。初期の正統派キリスト教会は肉体にこだわった。グノーシス派は様々に解釈していたが共通するのはキリストの本質は肉体ではなく霊的な次元にあり、キリストと弟子達は霊的に出会ったと主張した。

グノーシスの主張はキリストが十字架で処刑されたとき、イエスの本質には何の変化も起こっていない。ただ肉体という見かけ(ドケーセイ)にだけ変化が起こっただけという。本当の所、イエスは十字架にかけられてもいないのである。人の本質はすでに救われている。イエスの十字架による贖罪は必要としないのである。

2000年間も延々と唱え続けて来た正統派のキリスト教の信仰告白(十字架の死と復活)は意味を失う。つまりグノーシスは正統派の考え方を根底から否定してしまう危険思想だったのである。だから肉体の復活を否定する者はサタンとして容赦なく切り捨てたのである。

Vol.9 秘密の教え


The Sermon On The Mount/ Gustav Dore

『・・・・・ペトロがマリヤに言った、「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい、あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を。」  マリアが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」と言った。・・・・・・・』
「マグダラのマリアによる福音書」より

グノーシス文献「フィリポによる福音書」にはこう書かれている。
主は、マグダラのマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして、主は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は、主がマリアを愛しているのを見た。彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」
救い主は答えた。  「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのか」

「マグダラのマリアによる福音書」と「フィリポによる福音書」のこの部分はマリアとイエスが結婚していた証拠として、しばしば引用される。しかし、スリは聖人をみても聖人のポケットしか見えないという譬え
がある。目が曇っていれば曇って見えてしまうたとえだ。我々も物質的な次元に住んでいるために為にイエスとマリアをどうしても物質的な目で見てしまう。そうすれば愛するは性行為に接吻は男女の恋愛行為に解釈してしまうのだが。古代の教会では祭儀的な接吻が行なわれていた。新約聖書のローマ人への手紙16-16にも「 きよい接吻をもって、互いにあいさつをかわしなさい。キリストのすべての教会から、あなたがたによろしく。」とある。グノーシス派にも選ばれた者同士の「聖なる接吻」の儀礼があったことが知られている。

「フィリポによる福音書」の愛するの続きはこうである。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのか、もし盲人と目の見える人が一緒に暗闇にいるのならば、その人たちには何の違いもない。光がさすと見える人は誰でも光を観る。盲人は暗闇の中にとどまるのである。」

グノーシス文献でのマリアは一貫してマリアを覚醒(目の見える人)した女性またはすべてを知る女性として特別な地位が与えられている。グノーシスには真理に至る密議があった。マリアは秘儀参入をはたしグノーシス(叡智)を得ていた女性だった。

グノーシス文献ピスティス・ソフィアより
「マリアよ、恵まれた者よ、あなたの中にわたしはすべての高さの秘儀を完成する。自信をもって語りなさい。なぜなら、あなたはどの兄弟にも増して、こころが天の支配に向いているからである。」

19世紀インドの聖ラーマクリシュナは弟子のナレンドラ(のちのヴィヴェーカーナンダ)だけは特別扱いをした。どんなに無礼な態度をとっても注意することなく見境もなく可愛がったのだ。やがて人々は聖ラーマクリシュナがなぜそのような態度であったか理解した。聖ラーマクリシュナの死後、ヴィヴェーカーナンダは世界中に凄まじい光をはなった。

私はイエスとマリアの関係はラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの様な関係性ではなかったかと思う。イエスがマリアを愛していたのは彼女が真の自己に達成しているイエスの後継者だったからである。だからマリアは他の弟子達の教師として導くことが出来たのである。

ペトロは単に自分が居なかった時にイエスはどんな話しをしたのか聞いたのだが、マリアはペトロに聞かれてもいないイエスの隠されていた秘密の教えを話はじめる。

Vol.10 秘教的キリスト教


The Empyrean/
Gustav Dore

グノーシスはイエスが一生の間、誰にも話した事のない秘密の教えがあると主張する。正統派の神学者はイエスの秘密の教えなどないと主張する。が、共観福音書には弟子だけに奥義を伝えたことが記されている。もしパウロが秘密の教えを持っている事になるとパウロはグノーシスになってしまい正統派にとって都合が悪い事になる。

(マタイ伝13-11) そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
( マルコ伝4-11) そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
(第一コリント2-6) しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。(第二コリント12-4) パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

コリントではパウロがイエスを通して秘密の教えを授かり、それを円熟したキリスト教徒に分かち与えたことを述べている。あるグノーシス派はパウロの弟子の一人から奥義を伝授されたと述べている。それゆえに正統派がイエスが喩えではなされた公の教えに基づいており、グノーシス派は隠された秘密の教えに基づいているので自分たちグノーシス派が真のキリスト教で正統派よりも優れていると考えた。正統派を多数に公開出来る教えとすれば、少数の者だけに赦される隠された教えのグノーシスは仏教に例えるとまさしく密教に相当する。

ギリシャ哲学、プラトン主義、オルフェウス教、大地母神信仰、密議宗教などにキリスト教の味付けをほどこしたのがグノーシスだという意見も在るが、私にはグノーシスの教えの方が真のキリストの教えに近いように思える。グノーシスは秘教的キリスト教と呼び変えても良いのではないだろうか。

20世紀のロシアに一人の精神的な教師が現れた。ならず者の聖者と言われたグルジェフである。彼は秘教グループの痕跡を探し求めてアジア各地を旅をした。その旅の途上で沢山の古文書、秘教の教えに触れたと語っていた。グルジェフは自身をキリスト教徒と言い、そしてキリスト教のルーツがキリストが生まれる何千年も前の古代エジプトにあったことを弟子達に語った。グルジェフが語るキリスト教は発見されたグノーシス文献を正確に復習しており、グルジェフのワークにはグノーシスを含む古代密議宗教の流れが入っていたことを伺わせる。


Angels /Gustav Dore

私は最初にして最後の者
私は名誉を受ける者にして軽蔑される者
私は娼婦にして聖なる者
私は妻にして処女
私は母にして娘
私は母の一部

私は把握できない沈黙にして
多くのものが思い出す洞察
私は大きな音を立てる声にして
多くの模像を持つロゴス

なぜなら私は知識にして無知
私は控えめにして大胆
私は恥知らずにして恥を知る
私は強さにして臆病

私はあらゆる不安に生きる者にして剛胆
私は弱い者にして喜びの場所に無事にいる者

私はギリシャ人のソフィア(知恵)にして
非ギリシャ人のグノーシス(認識・知識)
私はギリシャ人と非ギリシャ人の法

私はエジプトにてその像の多き者にして
非ギリシャ人の中で像無き者

私はあらゆる場所で憎まれた者にして
あらゆる場所で愛された者

私は生命と呼ばれた者にして
あなた達は私を死と呼ぶ

私は法と呼ばれた者にして
あなた達は不法と呼ぶ。

私はあなた達が探し求めた者にして
すでに捉えていた者

私はあなた達が散らした者にして
あなたが集めた者

私はあなた達が恥じた者にして
あなた達が恥じなかった者


私は結合にして分離
私は存続にして解消
私は下降にして
人々は私のもとに昇る
私は裁きにして赦し
私は罪なき者にして
罪の根は私に由来する。
私の外見は強欲にして
私の中には欲望の抑制

「雷 完全なるヌース(精神)」
(ナグ・ハマディ文書)より

Vol.11 マリアの見た幻


Mary Magdalene Repentant/ Gustav Dore


『・・・・・・・・そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。「私は」と彼女は言った、「私は一つの幻の内に主を見ました。そして私は彼に言いました、「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」彼は答えて私に言われました、「あなたは祝されたものだ、私を見ていても動じないから。というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。」』「マグダラのマリアによる福音書」より

マリアはヴィジョンを通してイエスから直接啓示を受けたことを語り始める。グノーシスでは復活したイエスを肉眼で見たと信ずる者を愚か者と言う。肉体を持って復活したと思った弟子達は霊的な出来事を物理的な世界の事と混同してしまったのである。文字通りに見たのではなくマリアは霊的に見たのである。

イエスはたじろがないマリアを誉める。マリアは自己の源泉を知るようになったのだ。永遠の神の国を知っているからこそマリアは他の人々をその宝に導く事が出来るのだ。ある覚者は語る。「あなたの持つ素晴らしい宝に気づきなさい。」しかし無知な我々は外側の世界に宝を求める。

グノーシス・ヴァレンティノス派の教師マルコスは「幻が女性の姿で降りて来て自己の本性と宇宙の起源について説いたがそれは神的存在にも人間にもいまだ啓示されなかったものだ。」と語っている。最初は他の人の証言ゆえに信ずるがその後は自己の本性を知る事によって、そして真理そのものによって信ずるようになるのだ。グノーシス(智慧)は女性の姿であらわされる。仏教の智慧(プラジャナー・パニャーパラミタ)も女性形である。どちらもマインドを超えた智慧は女性形で表されるのだ。

グノーシス文献の「復活論」で、ある教師が弟子に語った。「イエスの復活を幻影だなどと思ってはならない。それは幻影ではなく実在するものである。・・・・むしろ、この世が復活よりも幻影といわれるべきだ。」別なグノーシス文献では「死んでから復活するのではなくて、生きている間に復活をとげなければならない。」と語る。「本来の自己、真の自己が蘇ること」それが真の復活の意味なのである。密教では即身成仏という。死んでから成仏するのではなく生きているうちに成仏するのである。


Vol.12 預言者の識別


Annunciation/Carl Bloch

肉体を持たない知的存在とコミニュケーションを行なうことを精神世界ではチャネリングとよぶ。聖書はそのチャネリングの宝庫である。 (マタイ伝10-20)「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」 (ルカ伝8-23) イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。 (ヨハネ伝 3-34) 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。(ヨハネ伝 10-38)そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」

自分はキリストであると宣言すれば医者は幻聴や幻覚として精神病の範疇に入れてしまう。キリストだと信じている精神病患者が複数入院している患者は自分だけがキリストで、他人をキリストと認めないという。自我は自分が特別だということを求めるのだ。自己を否定されて傷ついた人はひとかどの人物としてまわりから認めてもらいたい評価欲求をもっている。終末論的な世界観は分裂病患者の妄想にもあらわれるので、精神科の先生にかかると本当に精神を病んでいる患者も聖者も一緒にパラノイアか分裂病にされてしまうだろう。

原始キリスト教の時代はカリスマ性のあるチャネラーが沢山いて一派をなし教会を起こしていた。それぞれ勝手に聖霊のメッセージを受け取り、自分が本物でお互いに相手を偽物だと非難していた。そこでチャネリングの真偽を識別する必要がでてきた。

(ヨハネ第一の手紙4-1〜3)愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。

正統派の教義に逆らうもの、イエスの肉体の復活を認めない者は反キリスト、つまりサタンの手先として排除された。


Vol.13 姿を消した預言者


Light Light of the Incarnation/Carl Gutherz

トルコのフィギリアに正統派から異端と告発されたモンタノス派があった。「女性の姿をしてキリストは明るい色の衣まとって私の所へ降りて来た。私に智慧を授け、この場所が聖なる場所であること、ここがエルサレムになるだろうと私に啓示した。」とモンタノス派の女性預言者は述べた。

モンタノス派は男性社会の中で女性が預言者として重要な位置に就いていた。純潔を誓った男女平等の祭司がいて、断食などの禁欲的な生活を行った。集会では暗闇の中、白い衣をまとった7人の処女が松明をかかげ、エクスタシーの中で預言した。人々は耐えていた悲しみの涙を流し、人間の持つ運命を嘆いたと言う。

近年の発掘調査でモンタノス派の聖地はアポロンとその母レートーの神殿の場所にあったことが解った。モンタノスはキリスト教に改宗する前はその祭司だったらしい。そこはキリスト教以前にあった地母神信仰の盛んな土地だったのである。聖なる場所は地磁気の異常が見られたり、エネルギーが螺旋状に渦巻いているところが多く変成意識状態を起しやすい。古代から託宣の地は聖なる場所にあったのである。3世紀モンタノス派はローマ帝国、北アフリカまで広がった。モンタノス派の教義はイエスの肉体の復活を認め正統派とあまり変わらなかったが男性中心社会の中での女預言者の存在は正統派の教父達に嫌われてしまった。「彼女達はあつかましく、つつしみ深さがない。治療行為をして、洗礼さえも行なっている。」

福音書でパウロは女性預言者に厳しい制限を加えて行く。
(第一コリント 11-6)「もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。」(第一コリント14-5) 「わたしは実際、あなたがたひとり残らず異言を語ることを望むが、とくに預言をしてもらいたい。」と異言と預言について語るように求めるが女性だけは別で(第一コリント14-34)「婦人たちは教会では黙っていなさい。彼女は語ることが許されていない。」ついに教会での女性預言者の発言を封じてしまう。そしていつの間にかイエスの復活の最初の目撃者が女性だった事も省略されてしまう。この地域はそれだけ影響力の強い女性預言者や女性指導者が数多く存在していた。

4世紀の初めにローマでモンタノス派はすでに絶えてしまっていた。モンタノス派の預言者は120年後に新しい世界があらわれると預言を下したが、新しい世界とは女性預言者、女性指導者が姿を消した世界だった。


Vol.14 神の身体論


Universal Man/Hildegard von Bingen

『私は彼に言いました、「主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、魂か霊か、どちらを通してなのですか。」
救い主は答えて言われました、「彼が見るのは、魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中にある叡知、幻を見るものはその叡知であり、その叡知こそが・・・・・・・(このあと欠落)』

「マグダラのマリアによる福音書」より

「マグダラのマリアによる福音書」では魂と霊に分けられその中間の精神の働きを叡知としているが残念ながらテキストが失われているのでそれ以上の事はわからない。このテキストの翻訳では魂は肉体に近く、霊は神に近いので混乱するおそれがある。

インドのヨーガ文献では
肉体とエーテル体を合わせて粗大身(グロスボディ)、
こころのレベルを微細身(サトルボディ)、
さらにその奥の精妙なレベルを原因身(コーザルボディ)と大まかに三つの身体に分けている。五つのコーシャにもわける。

大乗仏教では応身(ニルマーナカーヤ) 
報身(サンボーガカーヤ)
法身(ダルマーヤカーヤ) と呼ぶ。

アビダルマ仏教では「欲界」「色界」「無色界」にわけ、

神智学では7つに分ける。

トランスパーソナルの論客、ケン・ウィルバーは自己を
前個的(プレパーソナル)、
個的(パーソナル)、
超個的(トランスパーソナル)にわける。
さらに超個的(トランスパーソナル)の領域はヴェーダンタ哲学の用語を借りて霊的、微細的、原因的にわけている。

精神世界では様々な用語が飛び交っているで三つの領域でまとめてみた。実際には直線的な区別があるわけではない。

1、粗大身(グロスボディ)
感覚肉体的 自我意識
応身(ニルマーナカーヤ )
第一身体 肉体
◎アンナマヤコーシャ  食物のサヤ 
第二身体 エーテル体
◎プラーナマヤコーシャ  プラーナのサヤ 

2、微細身(サトルボディ) 
思考、感情
報身(サンボーガカーヤ)
第三身体 アストラル体 
◎マノマヤコーシャ 意思のサヤ 情報受理 
第四身体 メンタル体
◎ビジュナーナマヤコーシャ 理智のサヤ、 知性  

3、原因身(コーザルボディ )
集合無意識
法身(ダルマーヤカーヤ)
◎アーナンダマヤコーシャ 至福のサヤ 
第五身体 コーザル体
第六身体コズミック体
第七身体ニルヴァ−ナ体

自己全体を観照しているのがプルシャすなわちアートマン=ブラフマンである。

Vol.15 魂の上昇


Jacob's Ladder/William Blake

『・・・・・・・・・(欠落)ノを。そして欲望が言った、「私はお前が降るところを見たことがないのに、今お前が昇るところを見ている。お前は私に属しているのに、どうして私を騙すのか。」
 魂が答えて欲望に言った、「私はあなたを見た。あなたは私を見たこともないし、私を知覚したこともない。私はあなたにとって着物のようであったのだが、あなたは私を知らなかった。」これらのことを言った後、魂は大いに喜びつつ、去って行った。』

 『それから魂は第三の権威、無知と呼ばれるもののところに来た。その権威が魂を尋問した、「お前が行こうとしているのはどこへなのか。お前は悪の内に支配されてきた。お前は支配されてきた。裁くな。」と魂に言って。そこで、魂が言った、「あなたが私を裁くのはなぜなのか、私は裁いたりしたことなどないのに。私は支配したことがないのに、私は支配されてきた。私は知られなかったが、私の方は、地のものであれ、天のものであれ、すべてものが解消しつつあるときに、それらのものを知っていた。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
「マグダラのマリアによる福音書」より

魂の上昇の様子をマリアは語る。第一のテキストと第二の最初の部分は失われている。第二の権威「欲望」は魂が物質界に属していると思っているので「私(欲望)と同じ物質界に属しているのになぜお前(魂)は天に属するというのか。」と問いただす。魂は「欲望」にあなたを知らない。あなたは私ではないと言う。魂はもはや欲望と同一化せず欲望に支配されてはいない。

明らかにこのテキストは脱同一化を述べている。我々は自我の感覚に同一化しているために、他の部分すなわち自己の本質を自覚出来ないでいるのだ。物質的なものはすべて変化して去って行く。若さは失われ老いて行く、美しさは醜さへ、肉体の強さは弱さへ、出会えば別れが、上りつめれば落ちてしまう。もし永遠でないものを失うまいと執着すれば自分を見失い、深刻な人生の危機がおとずれる。極端な自己否定は自殺に追い込んでしまう。


Vol.16 気づきと力の中心


Angels Experience Feelings/Elihu Vedder

イエスは「苦しみは物質と姦淫する事によっておこる。」という。「私は疲れている。」というが肉体は物質的なものであり常に変化している。私は身体を持っているが身体は私ではない。私が疲れているのではなく疲労した身体が私に伝えているのだ。わたしが肉体と同一化しているのだ。

「私はいらだっている。」と言う。しかし正しくは「わたしの中にいらだちの状態が存在している。」と言うべきだ。自己がいらだちに自己同一化してしまうと、たちまちいらだちに支配されてしまう。

グノーシス文献はしばしば「身体の灯火はヌースである。」という。ヌースとは頭の中のおしゃべりを止めた時に現れる気づきと力の中心である自己の本性のことだ。
「あなた方の導師とあなた方の教師を連れ込みなさい。ヌースが導師であり、ロゴスは教師である。あなたのヌースに従って生きなさい。力を得なさい。ヌースは強いのだから。あなたがたのヌースを開きなさい。あなたがたの内なる灯火をともしなさい。」
教父シルヴァノスの言葉

トマスの福音書は語る。「自らが知っていることは何であれ、自らの本性ではありえない。」
自分の苦しみをながめることができれば、自己が苦しみではなく、目撃するものであることを理解する。苦しみを感じている自己はそれ自体苦しみを持っていない。身体感覚、感情、思考に自己が同一化すれば奴隷状態のようにそれに支配されてしまう。無知とは真の自己ではないものと同一化している状態なのである。

脱同一化のエキササイズは次のようにする。
「わたしは感情を持っている。しかしわたしが感情ではない。わたしの感情は常に変化し矛盾する。愛から憎悪へ、平静から怒りへ、喜びから悲しみへ。しかしわたしの本性は変わらない。わたしが怒りの波にのまれてもそれは一時的なもので、そのうち過ぎ去ることをわたしは知っている。だからわたしがこの怒りではない。わたしはこの感情を観察して理解することができる。感情を徐々に方向づけ、利用し統合することができる。そのような感情がわたしではないことは明確だ。わたしは感情を持っている。しかしわたしは感情ではない。」

感情からの脱同一化は簡単ではない。気がつく前に感情(無意識の中で抑圧され閉じ込められたエネルギー)が動いてしまうからだ。

Vol.17 インナーチャイルドの悲しみ


Gethsemane/Carl Bloch

親は子どもの自由なエネルギーをしばしば制限する。怒りは言葉で表現したり、物を殴る蹴る、などで緊張を発散する事が出来る。しかし親が自分より強い場合には報復をおそれておとなしく服従するだけだ。子どもは親に依存せざるをえない。子どもが見捨てられる恐れを抱くと親に腹を立てても抑えるしか方法がない。しかし発散せずに繰り返し感情を抑制していると子どもの内部で緊張は無意識化されてしまう。人はもはや感情を抑制している事実に気がつかない。感受性を失ってしまい緊張を感じないからだ。

「ブロークン・スピリット」という概念がある。支配的な親に対して、歯向かった為にひどく罰せられスピリットをくじかれた経験である。子どもは親から傷つけられた場合、親への愛の中に怒りと憎しみが混入してしまう事がある。自分とたいして関係ない人間には腹を立てない。ただ離れるだけである。「ブロークン・スピリット」が内側に持つ人が、恋愛に傷つき、愛が冷めて終わりを告げるとき、愛は憎しみと怒りに変わる。その人の心は愛と憎しみの間で揺れ動き、関係性の中で苦しむ事になる。親から傷つけられた「ブロークン・スピリット」を内側に封印したまま成長し、自分が権力を持つ親になったとき、その人は罪のない子どもに対して感情を爆発させる。

「ブロークン・スピリット」によっては怒りを感じたり、表現をすることが困難な人もいる。刺激や挑発が強ければ、少しは怒れる人、ほんのちょっとの事で怒りを爆発させる人もいる。しかし、自分がなぜ怒っているのか、気がつく前に怒っているので慢性的な緊張の解消にはならない。

感情をその原因になった事以外にぶつけても解放されない。ある一つの感情を抑圧すると他の別な感情も抑圧されてしまう。男性は泣くなという条件づけを受けているので泣く事よりも怒りの方が簡単にでる。女性はその反対が多い。外に向って泣けずに怒りを表しているとき体の中では泣いているのである。

世界中で暴力の嵐が吹き荒れている。
人々は愛を求めて、泣いている。
こころの中で泣いている。
ちいさな子どもが泣いている。
インナーチャイルドが泣いている。
母親の愛を求めて。

Vol.18 忘却した自己


The Virgin with Angels /Adolphe William Bouguereau

「・・・・・・・・・・・魂は第三の権威にうち勝ったとき、上の方に去って行った。そして第四の権威を見た。それは七つの姿をしていた。第一の姿は闇であり、第二のは欲望、第三のは無知、第四のは死ぬほどの妬みであり、第五のは肉の王国であり、第六のは肉の愚かな知恵であり、第七のは怒っている人の知恵である。これらが怒りのもとにある七つの権威なのである。』

『彼らが魂に「人殺しよ、お前が来るのはどこからなのか。それとも場所にうち勝った者よ、お前が行こうとしているのはどこへなのか」と尋問すると、魂は答えて言った、「私を支配するものは殺された。私を取り囲むものはうち負かされた。そして私の欲望は終りを遂げた。また無知は死んだ。世にあって、私が解き放たれたのは世からであり、また範型の内にあって私が解き放たれたのは天的な範型からであり、一時的な忘却の束縛からである。今から私が沈黙の内に獲ようとしているのは、時間の、時機の、そして永久の安息である。」マリアは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。・・・・・・・・・・』

「マグダラのマリアによる福音書」より


魂はさらに上昇を続ける。第四の権威は怒りである。魂はもはや感情に支配されてはいない。魂が物質的な体を脱ぎ捨てたことに対して第四の権威は人殺しと呼ぶ。

「憎しみや渇望は、手も足もなく、勇気も智慧もない。ではなぜ私は奴隷のように使われるのか。」
シャーンティ・ディーヴァ(入菩提行論)より。

チベット仏教では憎しみや怒り執着、嫉妬は自分の心の中の幻影だという。この幻影を打ち負かすには心の本性を悟る事、つまり智慧(グノーシス)を生み出す事だと言っている。

魂は自分自身の幻影の支配から解放されたことを告げる。魂は自分が闇や欲望、無知、嫉妬の世界に属する者ではなく、天から来た者であり自己の本性を知っていた。七の天界の領域を超えてついに魂は我が家にたどり着いた。そして今まで自分が誰であるか忘却していた事に気づく。純粋な自己の中心、それは沈黙の中にある至福であり安息であった。

これだけ話すとマリアもまた沈黙に入った。

グノーシス文献「闘技者トマスの書」は語る。「理性的魂は探求に疲れ果てた末に・・神について学んだ。魂は苦労して探し、身体のなかで苦難にたえ,・・計り知られざるものについて学んだ。・・魂は安息するもののもとで安息した。花嫁の部屋で横になり、渇望していた宴に列した。・・求めていたものを見いだしたのである」


Vol.19 グノーシス派との確執


A Vision of Angels / Sir Edward Coley Burne Jones

『・・・・・・ すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言いたいと思うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」』

 『ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「まさかと思うが、彼がわれわれに隠れて一人の女性と、しかも公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。救い主が彼女を選んだというのは、われわれ以上なのか」・・・・・・・・・・・・・・』
マグダラのマリアによる福音書」より

アンドレはマリアの教えに疑いを挟む。しかしこのテキストで語るイエスの言葉「内部に自己の本性を見いだす者はわたしの平和を獲得する。」とマリアの話はなんら矛盾するものではない。ペトロは内容ではなくマリアが女性であることを問題にする。

正統派とグノーシス派との確執がここに見て取れる。ペトロとアンドレは正統派を代表している。正統派にとって問題になるのはイエスの教えの正当性と女性の権威とリーダーシップである。資料にはマグダラのマリアとイエスの母マリアとサロメの名をとったグノーシスの共同体が在った事を示している。あるグノーシス共同体は、正統派の司教、司祭、助祭、平信徒のような階級制をとらず、完全な男女平等で、役割を常に交代していた。そして秘儀参入をはたしてグノーシスを受けた人々だけで成り立っていた。

グノーシス文献は一貫してマグダラのマリアがイエスの最も優れた霊的な指導者として書いている。マリアは森羅万象を知る女なのである。
「マリアよ。恵まれた者よ。あなたの中にわたしは全ての高さの秘儀を完成する。自信をもって語りなさい。なぜなら、あなたはどの兄弟にもまして、心が天の支配に向いているからである。」
ピスティスソフィア

正統派は女性が男性の下に従属すべきであるという伝統的なユダヤ教の慣習を受け入れていた。
共観福音書の(第一テモテ2-12)「女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。」この記述からイエスの死後、キリスト教には女性のリーダーがいて実際に男性の上にリーダーシップをとっていた事がわかる。2世紀には女性が指導するグループはすべて異端とされた。

2000年もの間、キリスト教は正統派の教義にそった福音書は保存して、グノーシス派の文書は破棄し続けた。1977年ローマ教皇パウロ六世は「われわれの主は男性であるゆえに、女性は司祭になることはできない。」と宣言した。正統派の教会は現代でもグノーシス文献は邪悪なテキストで異端の書と語っている。


Vol.20 闇に葬られたマリア

The Death of St Mary Magdalene/Rutilio Manetti

『・・・・・・・・・そのとき、マリヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で考え出したことと、あるいは私が救い主について嘘をついていると考えておられるのですか。」』

 『レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ていると、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふわさしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために完全なる人間を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである。救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。かれらは告げるため、また宣べるために行き始めた。・・・・・・・・』
「マグダラのマリアによる福音書」より


ペテロは初期キリスト教の指導者だった。正統派は聖書の(第二ペテロ3-15) 「また、わたしたちの主の寛容は救いのためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。」を教会の権威とした。

正統派はペテロがイエスの権威を受け継いでいると考えていた。しかし別な伝承ではペテロは失敗する人として書かれ別な顔を見せている。(マルコ伝8-32) しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」このマルコ伝ではペテロはやりすぎてイエスにサタンとまで言われている。

レビはペテロを責め立てる。「救い主がマリアをふさわしいと判断したのに、それに反対するペテロ、あなたは一体何様のつもりだ。」レビはペテロをいさめた。恐れと不安におののく自分を恥じるべきであり、イエスが言われた真の自己を見いだすべきだ。いったい自己の本性に達しない弟子達がどのような福音をのべるつもりなのだろうか。 トマスの福音書でイエスは言う「盲人が盲人を手引するならば、ふたりとも溝に落ちてしまうだろう。」最後に弟子達はレビと共に福音を告げに出かけるが、他の異聞テキストでは福音を伝えに出て行くのはレビ一人だけだったという。「マグダラのマリアによる福音書」のテキストはここで終わっている。

共観福音書のマグダラのマリアは最初に復活したイエスを目撃した女性として書かれている。そして聖書にはその後、マグダラのマリアの記述は全く姿を消す。さらにマルコ伝の後に成立したとされるルカ伝24-33ではイエスに最初に会ったのはマグダラのマリアではなくペテロ(ヤコブという資料もある。)だったことになっている。こうしてイエスの死後、初期キリスト教の卓越した指導者だったマグダラのマリアは闇に葬られた。残されたのは悪霊に取り憑かれて悔い改めた娼婦のイメージである。

光輝く髪を持ちあまりにも美しかったリビアの女神メドゥーサはギリシャに征服された後はその美しい巻き毛は蛇になり、恐ろしい怪物の姿にされてしまう。マグダラのマリアと姿を消した女神の運命は重なって見える。

やはり、いまの聖書は正統派の都合によい聖書の記述だけが残され、イメージ操作が行なわれたと考えた方が自然である。グノーシス文書が2000年後に復活して出て来た背景にはキリスト教が実存的変容をせまられているように思える。


参考・引用文献
「ナグ・ハマディ文書1救済神話」荒井献訳 岩波書店
「ナグ・ハマディ文書2福音書」荒井献訳 岩波書店
「トマスによる福音書」荒井献訳 講談社
「禁じられた福音書」エレーヌペイゲルス 青土社
「ナグ・ハマディ写本」 エレーヌペイゲルス 白水社
「グノーシス」 クルト・ルドルフ 岩波書店
「グノーシス」筒井賢治 講談社
「聖典の探索へ」 エリザベス・シュスラー 日本キリスト教出版局
「キリスト論論争史」 水垣・小高編 日本キリスト教出版局
「グノーシスの神話」 大貫隆 岩波書店


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