グルジェフの痕跡
G. I. Gurdjieff
ロシアに革命が起こる直前の1912年にグルジェフはモスクワにこつ然と現れた。ヨーロッパにスクール(人間の調和的発展のための学院)を創設し「システム」と呼ばれる教えと、「ワーク」と呼ぶ実践を教え始めた。グルジェフはあらゆることを犠牲にして意識の探求に人生のすべてをささげた。
ヒットラーがドイツで台頭しつつある1924年1月、グルジェフはアメリカに教えを広める為に36人の弟子を従えてNYの73丁目とブロードウェイの角にあるアンソニア・ホテルに宿泊した。
グルジェフが宿泊したアンソニア・ホテル Ansonia Hotel
グルジェフ一行は83丁目260番のレズリーホールを皮切りに最後はカーネギー・ホールで神聖舞踏を公演した。
グルジェフが最初に公演したレズリーホール Leslie Hall
グルジェフは公演と講義を無料で行なうと主張して弟子のオレージを驚かせた。オレージはイギリスの知識階級に地位を築いていた「ニューエイジ」の編集長の職を投げ打ってまでグルジェフの先発としてNYに来ていた。グルジェフはお金を持っておらず、しかも公演活動しても1ドルもお金が入らないのである。最後のカーネギー・ホールだけは料金をとった。
神聖舞踏の公演を行なったカーネギーホール
NYの公演の様子は書店の店員だったC・S・ノットがその手記に詳しく述べている。
神聖舞踏を理解出来そうもない眠りこけた観客に見せるのは豚に真珠をやるようなもので、関心のある少数の人だけに見せた方が良いのではないか、という意見に対してグルジェフは怒りを見せて答えた。
「どうして君にそんなことが判断できるのかね?今日眠っているように見える人間が、20年後には自分の内部で何かが目覚めるのを感じるかもしれない。逆に、今熱心そうに見えるものが10日後にはすっかり忘れているかも知れない。われわれはすべてのものに機会を与えなくてはならない。結果は関知するところではない」
大勢の弟子を従えての物価の高いNY滞在はグルジェフをたちまち資金難に陥らせた。金策はNYのオレイジにまかせて、グルジェフは全く金を持たずにNYに来たのである。弟子達の大半がフランスに戻ったあと、グルジェフは1ドルのお金もなく49丁目のアパートに籠った。このころ、彼の顔に疲れが見えた事を弟子の一人が報告している。その後、神聖舞踏の公演は二度と行なわれることはなかった。
グルジェフは、「人間の意識は深く眠っており、機械のように生きている」と言った。
「人類は眠っている。人は一人ではなく多くの〈私〉を持っている。夢想と忘却の中に自己を喪失する。生まれるには死ななければならない。無数の同一視から自己を解放しなければならない。自分自身を知れ、永続する〈私〉を達成せよ」
「人間は機械だ。彼の行動、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これらは全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。人間は、自分自身では一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。彼の言うこと、為すこと、考えること、感じること、これら全てはただ起こるのだ。人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるにまかせているにすぎない。全ては起こるのだ。人は愛しも、憎しみも、欲しもしない。それらは全て起こるのだ」
人類が眠っていることについて深く考察したウスペンスキーは「眠っている者、恒久不変の私を持っていない者、自己を想起できない者が果たして自由意志を持ちうるだろうか?」と考えた。そして自分自身の存在を思い出す自己想起を試みて「2分以上自己を意識するのは全く不可能だった。」と述べている。「自己を想起できないのであれば、私は外部からのあらゆる偶然の影響にもてあそばれる機械であり続けるであろう。自己想起こそ最も重要なことであり、それ以外のことは もはや私にとってはどうでもいいことだ。」そして彼はグルジェフの弟子となり教えを実践した。
体を動かす時に自分が何をしているか考えてしまうと、うまくいかない。思考や動作の大半は自動化されているからだ。いつのまにか眠りこけて自動的な機械におちいってしまうのだ。非常事態や危機状態のときに人は目覚める。そこで何か「目覚まし時計」のようなものを作り出すことができれば問題は解決するだろう。そこで喫煙の習慣を打破すれば目覚まし時計になることを考え禁煙を決意した男がいた。
「私は禁煙を決意しました。1~2日間はこれは素晴らしい目覚まし時計でした。ですがすぐに慣れてしまいました。今晩、地下鉄でここに向かう途中私は考えていました、私は予想していた以上に楽々と禁煙を達成した。だが禁煙が機能したのはごく短期間だった。私は満足気に自問していたのですが、ふと右手を見るとそこには既に半分吸い終えた煙草が握られていたのです。これは私にとって非常にショッキングなことでした。人類は眠りながら生きている、という 言葉の真意を私は初めて理解しました」
グルジェフは睡眠と日常の覚醒状態の上位に高次の意識状態である自己意識と客観意識を置いている。日常の覚醒状態とは目覚めていると思っている眠りなのである。本当は金持ちの息子なのに貧者の夢をみている様なものなのだ。我々は持続して一貫した自己意識を持つ事ができない。次の瞬間に注意力は散漫になり、自己意識は失われてしまう。注意力はすぐに外側にむいてしまい、こころの中の無用なおしゃべりや感情に自己同一化してしまうのである。
「人間は自分が直面する小さい問題と一体化してしまい、仕事をはじめた時の大いなる目標を完全に忘れてしまう。ひとつの感情、一つの気分と一体化して、自らのより自由な思考、感情、気分などを忘れてしまうのだ。」
グルジェフは弟子達が如何に自動人形のように機械的に生きているか「ワーク」によって自覚させた。そして偽りの自我である人格に気がつかせる為に弟子達を徹底的に侮辱し、追い込んでいったりもした。その為か、ウスペンスキーは正式にグルジェフと関係を断ち、弟子達にも名前を口にしてもいけないと命じた。
グルジェフがしばしば滞在したウエリントンホテル。調理禁止の張り紙をもちろん無視してグルジェフは部屋でストーブを利用して調理しパーテーを開いた。グルジェフは料理の名人だった。
グルジェフの用語に従えば伝統的な探求の道は第一の道ファキール、第二の道モンク、第三の道ヨーギの三つに分かれる。第一の道ファキールは伝統的なハタヨガのように肉体を制御することにより本能・動作センターを開発する。インドでは片足で何十年も立ち続けたり、信じがたい姿勢を何十年も続けて、強い意志を獲得するヨギが存在する。しかし、その顔に知性が見られない者がほとんどだといわれている。いまでもインドにいけばファキールを見る事が出来る。何十年も片手を上げっぱなしのファキールを見た事がある。上げっぱなしなので手の色も形も異様で手のつめは伸び放題だったが人々の尊敬を集めていた。しかし、その顔は凡庸だった。
第二の道モンクは修道僧の道と訳されるが感情センターに働きかけるので、バクティ・ヨーガに相当する。バジャンやキルタンを歌い、マントラを唱えひたすら祈り、すべてを神の愛へと昇華させる。しかし本能・動作センターと知性を発達させなければそれは愚かな聖人と呼ばれる。
第三の道ヨーギとはハタヨガやカルマヨーガのことではなくてジュニャーナヨーガのことを指す。公案を瞑想する禅の道もヨーギの道にあたる。
グルジェフの探求の道は第四の道と言われている。第四の道とは俗世間にいながら世間に属さず、ワークを通して肉体・感情・思考三つのセンターすべてに働きかける。出家せずにその人の生活状況をそのまま利用するのである。
神聖舞踏と訳されるムーブメンツは各センターに首尾一貫した注意力を要求する、無意識的なパターンに気づかせるストップ・エクササイズ、他人を見るように自分に焦点を当てる自己観察の訓練、不断なき注意力を継続させ自己想起の努力をしてゆくと、閃光のように自己意識がおとずれる。すべてがあるがままに意識の鏡に映しだされる状態をグルジェフは客観意識と呼んでいる。
グルジェフは自己想起を持続させていくと普通の人間にも自己意識が一瞬閃くことがあるといっている。自己意識とは集中力と意識的な努力が伴うのでサヴィカルパ・サマーディ(有種子三昧)のことだろう。
すべてがあるがままに意識の鏡に映しだされる状態をグルジェフは客観意識と呼んでいるが、これは思考が止まり自我意識が滅したニルヴィカルパ・サマーディ(無種子三昧)に当てはまる。
1924年はグルジェフにとって転換の年だった。7月に交通事故で瀕死の重傷をおったグルジェフはパリ郊外のスクールを閉鎖してしまったのだ。
交通事故で死にかけたグルジェフにとって金銭的にも肉体的にもスクールを維持する事は困難だった。スクールの維持の為に膨大なエネルギーがグルジェフの一人の肩にかかっていたのである。スクールを断念したグルジェフは自分の教えを書物によって残そうと考えた。ロシア革命以来行動を共にしてきた忠実な弟子達を追放し、今までワークに注いでいたエネルギーをグルジェフはすべて執筆にそそいだ。
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「ベルゼバブの孫への話」の第42章に出て来るマジェステックホテル
ベルゼバブが宇宙船カルナックからパリに降り立って、蒸気船でニューヨークに行きパリの知人に進められて泊まったホテルがマジェステックホテル、現在はドリームと名前を変えている。第42章の最初はアルコールと料理の話が延々と続く |
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「ベルゼバブの孫への話」は当初、オルガ・ハルトマンを相手に口述筆記で始まった。そして、3年間、昼夜を分かたず、あれだけ心血をそそいだ第一稿が失敗であり、そのすべてをまた一から書き直さなくてはならないと気がついた時に、グルジェフは危機に陥り、自殺まで考えた。
「私は再び自室に閉じこもり、適切な内的状態を生み出してから、この件に関しては初めて厳かな誓いを立てたのである。すなわち将来、私の世話をあれこれ焼くことで私の生活をあまりに快適なものにしている者達を、いろいろそれらしい口実をでっち上げて、全員私の視野から追い払う事にしたのだ」
こうしてグルジェフはもっとも優れていた弟子であったザルツマン夫妻、ハルトマン夫妻、NYで資金を提供していたオレージさえも遠ざけてしまった。グルジェフは弟子に依存するようなタイプのグルではなかったのである。
グルジェフ・ワークには何かを獲得するには必ず支払いをしなければいけないという原則があった。グルジェフは若い頃、探求の道が困難を極めた時、苦労して習得したテレパシーや催眠術の能力を放棄するを誓ったことがあった。すると生まれ変わった様に注意力をもった自己意識を獲得したのだった。
1932年にフォンテーヌブローの人間の調和的発展のための学院が売りに出された。傍からはグルジェフはどん底に見えた。グルジェフはみずから作り上げたものを壊し、破滅に向かっているように見えたのである。
1927年から39年までの間グルジェフは度々ニューヨークに渡航した。ある日、ヘンリーハドソン・ホテルに宿泊したグルジェフは社会的に重要なニューヨーカーを招いて夕食会を催した。その席でグルジェフは大半の人々は性的な衝動に突き動かされているのだと話はじめた。そして思いっきり下品な言葉で民族の性の習慣に関する話をはじめた。食事の後、多くの客はカップルをつくって服を脱ぎいちゃつき始めた。しばらくして突然、「君たちはもう十分、私の観察の通りアメリカの堕落を証明してくれた。もうこれ以上見せてくれる必要は無い」というグルジェフの大声が響きわたった。この授業に対して自分は十分な授業料を戴く権利があり、小切手を喜んで頂戴すると締めくくってグルジェフは招待客から数千ドルを徴収した。グルジェフは眠りこけた人々を手玉に取る事が出来たのである。
ニューヨークの59丁目204番のアパートに滞在して5番街の604番地にあるチャイルズ・レストランでパンケーキをたべ、コーヒーにレモンを絞るグルジェフの姿があった。グルジェフの3部作の最後の未完の著書「生は〈私が存在し〉て初めて真実となる」はチャイルズ・レストランでの講義録になっている。
チャイルズ・レストランがあった場所
かつてグルジェフと共に最初にNYに訪れたダンサーの一人オルギヴァンナは建築家フランク・ロイドと結婚しグルジェフのスクールをモデルにウィスコンシン州にタリエシンという共同体を運営していた。「ベルゼバブ」は未だに仕上がっていなかったが、弟子はシカゴとニューヨークで増えて行った。
1948年11月グルジェフは出版資金を集めるため再度NYに渡航しウェリントン・ホテルに宿泊した。グルジェフを憂鬱にさせ、自殺まで考えさせた著作、秘教的知識を何とか伝えようとした「ベルゼバブ」は資金難のため出版されてはいなかったのである。グルジェフはすでに82歳になっていた。その翌年、1949年10月29日グルジェフはフランスのパリ郊外、セーヌ河畔のヌイーイで他界した。ベルゼバブの出版のゲラ刷りがようやく届いたばかりだった。
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