パンチェン・ラマ
Panchen Lama


第六章 ダライラマ十四世の亡命
第七章 囚われたチベット
第八章 七万言の書
第九章 幽閉されたパンチェン・ラマ
第十章 パンチェン・ラマの帰還
第十一章 パンチェン・ラマの悲劇
 

第一章 初代パンチェンラマ

 この地球上には自由を奪われ虐殺されている人々が数多く存在するのに、世界中からチベットに熱い声援が送られる背景には,ダライラマ14世法王個人の影響もある。チベットの歴史の中で,これほどまでにダライラマ法王が圧倒的な存在感をもった事は、なかったのである。中国のチベット侵略によってチベット人の心はかつてなく一つにまとまったのである。

 実はダライラマよりもしのぐ存在は、パンチェンラマなのである。慈悲のはたらきを具象化し、人格化したのが観音菩薩、ダライラマ法王は観音菩薩の化身であり、その観音菩薩を脇侍とした仏さまが阿弥陀如来である。その阿弥陀如来の化身がパンチェンラマなのである。 少なくとも仏教の考えでは、菩薩よりも如来はヒエラルキーが高いのである

 最初のパンチェンラマとされるのは、1570年にシガツェ近郊の村レントクギャで生まれたロサン・チューキ・ゲルツェンである。14才でエンサ寺の座主となるほどの天才児だったらしい。パンチェンラマが請われて座主を勤めたタシルンポ寺は、最初、食べ物にも困る貧乏小寺だったがパンチェンラマのおかげでチベット有数の大寺院にまでなった。ゲルク派の僧侶を殺害しセラやデプン寺などのゲルク派の大寺院を略奪していたツアンの領主を初代パンチェンラマは改宗させ、モンゴル軍のグシハンを信者にしてその助けを得てカルマ・カギュー派を駆逐し、チベット最大の宗派にするのに多大な貢献をした。

初代パンチェンラマの廟

 パンチェンラマとはパンディッタ・チェンポの略で、ダライラマ5世から送られた偉大な学者を意味する称号である。3代前までさかのぼって称号を与えられたので、初代パンチェンラマであるロサン・チューキ・ゲルツェンはパンチェンラマ四世と呼ばれる。パンチェンラマ四世は92歳でなくなったというから、当時としては驚異的な寿命である。パンチェンラマはダライラマ4世と5世の精神的導師をつとめ、それ以後、ダライラマがチベットの政治的な権威を持ち仏教教理の役割はパンチェンラマ が担ってきた。

 歴代のパンチェンラマは「カーラチャクラ」の権威でもある。パンチェンラマ四世の死後タシルンポ寺の勢力があまりにも強大となったので、ダライラマが住むラサ政府とパンチェンラマのシガツェとの間には、しばしば緊張関係がうまれた。また比較的長命だったパンチェンラマに比べると、摂政に事実上の権力を握られていた歴代のダライラマの多くは短命であった。歴代ダライラマの死亡年齢は九世10歳、十世21歳、十一世17歳、十二世19歳である。

 この背景には、転生ラマの認定にまつわる権力と財産目当ての私腹争いがあるといわれている。摂政は幼いダライラマが成人するまでダライラマのごとく振る舞った。ダライラマが成人すれば権力を失うので、その地位を維持するためダライラマを毒殺したのである。チベットでは転生ラマの財産は一代限りで、家族、親族には相続されず次の転生者に引き継がれるのが慣例になっていた。ダライラマに選ばれた家族は貴族となった。                    

第二章 パンチェンラマ六世


 
歴代の清の皇帝はチベット仏教に帰依し、特に乾隆帝はチベット語を学び自らチベットの僧服を身につけチベット仏教に深く帰依していた。パンチェンラマ六世は乾隆帝にひざまずくことはなかった。逆に帝や臣下はパンチェンラマ六世に礼拝し、朝鮮使節にまで強要したので彼らは強い屈辱を感じた。朝鮮使節は頭を地につけてパンチェンラマ六世に礼拝させられたのである。清朝にはチベット仏教を信仰するメリットもあった。ロシアの支配をきらったモンゴルのトルグートが同じチベット仏教を信じる清朝に帰順し、一滴の血も流さずに中国の領土が拡大したからである。まことに仏のご利益は大きかった。


パンチェンラマ六世


1780年パンチェンラマ六世は、清朝の乾隆帝70歳の誕生祝賀会の招待を受けてチベットを出発したが滞在先の北京、西黄寺で客死した。天然痘だったといわれる。乾隆帝がパンチェンラマ六世に授けた財宝を巡って、パンチェンラマ六世の兄弟で遺産争いが起きた。実の弟はカルマ・カギュー派の転生ラマ、シャマルリンポチェだった。相続を拒否されて怒りに駆られたシャマルリンポチェは、ネパールのグルカ兵をそそのかしてタシルンポ寺を略奪してチベットを侵略させた。グルカ兵が破れ引き上げるとシャマルリンポチェは自殺した。シャマルリンポチェの寺は改宗されてゲルク派となり、シャマルリンポチェの財産は没収され彼の転生制度も禁止された。しかし、この禁止令は100年後に反対されながらも復活した。以前の日記に書いたが現代のカギュー派シャマルリンポチェはもう一人のカルマパを両立し物議をかもしている。ゲルク派のダライラマに対しても批判的である。古代にあったカギューとゲルク派の争いの火種は現代まで継続しているのである。

 パンチェンラマ六世とシャマルリンポチは血を分けた兄弟だった。転生ラマがツァン地方の同一の貴族から、多数輩出した訳は神託官に賄賂を贈った結果と考えるのが自然だろう。清の皇帝は転生ラマの認定には利権が絡むので複数の候補者が見つかった時はクジできめるように、金の壷と箸をラサに送った。一週間の儀式ののちトウルナン(通称ジョカン寺)の釈迦像の前で、高僧が目隠しをして金の壷から金の箸で次期ラマの名札を摘むのである。これを金瓶制籤制とよぶ。時には利害が絡む複数の候補が現れるのが転生ラマ制度の危うい点なのだ。

第三章 ダライラマ十三世と
       パンチェンラマ九世の確執

 1900代初頭、チベット国内ではダライラマ十三世が治めるラサ政府とパンチェンラマ九世が統治するツァン地方との間には深刻な対立が起きていた。また、チベットの外側ではロシア、中国、インドを征服したイギリスが覇権争いをしていた。


パンチェンラマ九世

 ダライラマ十三世は幼い頃からの側近であるドルジェフというブリヤート・モンゴル僧(別名ツァンニー・ケンポ(因明学大師)もしくはガワン・ロサン)の意見にしたがって、イギリスの影響を食い止めるためにロシアとの外交関係を結ぼうとしていた。ドルジェフはグルジェフであるという説があるが写真を見た限りでは別人だ。その頃、ラサでは「ロシアとはチベットの言葉に直すとシャンバラのことであり、ツォンカパの化身であるロシア皇帝が徳を持って遠からず世界を征服して巨大な仏教王国を築き治めるだろう」とドルジェフが書いた文が出回っていた。イギリスはドルジェフをロシアのスパイと見なしていた。ドルジェフは多額の金銭を寺院に寄付して、しばしば法要を催して人々の歓心を買っていた。

 1903年ロシアとダライラマの関係を知ったインド総督は本国との相談もなく独断でヤングハズバンドを頭とする3000人のイギリス軍をチベットに派遣させた。イギリス軍はギャンツェでチベット軍を破り8月にはラサへ進軍した。まともな武器もなく、非暴力を教える仏教の国のチベット軍は、見たこともない最新兵器で武装したイギリス軍によって、一方的に虐殺された。イギリス軍6名負傷、チベット側には1600人の死者が出たといわれる。戦いはわずか数分の出来事だった。仕方なくダライラマ十三世はモンゴルに2年間亡命した。


ダライラマ十三世

 清朝はダライラマ不在の間、カム地方を占拠した。ダライラマ十三世は清と関係改善をはかるために、列車でモンゴルから北京に向かった。が臣下扱いを受け、すっかり中国嫌いになってラサへ戻った。パンンチェンラマはインドのカルカッタに滞在した。チベットに残った通訳のオコーナー大尉の、イギリスが後ろ盾になるという話を信じたのである。しかしチベット侵入はイギリス議会の支持をえられず、インド総督も替わり、約束は反古にされる。

 イギリスがチベットから撤退したのでダライラマ十三世のあとを追って、清朝政府は趙を頭する軍隊を東チベットに派遣した。東チベット、バタンの住民が清のチベット駐在大臣を殺害したので報復の為の軍隊だった。趙の軍隊はチベットの僧院を略奪、破壊して僧侶を殺し、仏像を溶かし、教典を破いて靴底の裏ばりにした。四川省の貧しい農民を東チベットに移住させ民族同化政策をとった。50年後の中国共産党のお手本のような政策を行った。1910年趙の軍隊はラサに進軍し、ダライラマ十三世はラサから脱出して、こんどは敵国だったインドへ避難した。

 清朝はダライ・ラマの廃位を宣言し代わりにパンチェンラマを任命した。パンチェンラマ九世はラサのノルブリンカ宮殿に入り清に協力した。

 1911年中国に孫文の革命が起き清朝が崩壊すると四川省の兵士の反乱により趙は首をはねられてしまう。チベット人はラサから清の軍隊を追い出し、1913年ダライラマ十三世をラサに迎えた。ダライラマ十三世は独立宣言したが中華民国の臨時大統領の袁世凱(えん せいがい)はチベットは中国の一部であると布告した。

 ラサでは軍隊を強化しようとしてタシルンポ寺へ多額の税を要求した。1923年、中国を後ろ盾としていたパンチェンラマ九世は税の要求をラサの報復と恐れ、タシルンポ寺を去って中国へ向かった。その後、パンチェンラマ九世は二度と故郷の土を踏むことはなかった。向かった先の西安は革命の混乱の真っ最中だった。モンゴルもスターリンの餌食になり僧院は一つしか残されてはいなかった。帰国を願い出るもダライラマ十三世に冷たくあしらわれた。パンチェンラマ九世は1937年チベットと中国の境の町ジェクンドで死去した。ダライラマ十三世はその4年前の1933年にその58歳の生涯を終えていた。

 ソ連軍に支配されつつあるモンゴルでは共産国家になっていて転生ラマの認定に関わる者は反逆罪となった。1920〜30年代のパンチェンラマはモンゴルの救世主として期待されていた。パンチェンラマが軍を率いてソ連軍をたたき出し仏教の新しい国を打ち立てると願望したのである。モンゴルでの僧侶の虐殺は共産党とチベット仏教界の最終戦争のように思ったことだろう。カーラチャクラの教えではシャンバラの転輪聖王であるルドラ・チャクリンが最終戦争で侵略者へ反撃して、悪の王とその眷属を滅ぼし、仏教を復興して、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来が訪れるのである。モンゴルの仏教徒は絶望の縁でパンチェンラマがシャンバラの王ルドラ・チャクリンであることを祈った。しかし民衆の願いもむなしくモンゴルでは僧院の財産も、高位ラマも僧侶も根こそぎにされた。その仏教の痕跡さえ残ってはいなかった。パンチェンラマ九世は時代に翻弄されなす術はなかった。

 ダライラマ十三世は遺言を残していた。それは次の通りである。「私たちが祖国の防衛に失敗したなら、尊いラマも栄えあるパンチェンラマもダライラマも抹殺され、その名の痕跡すら残らないであろう。転生ラマや僧院の財産、法要へのお布施もすべて没収される。それだけでなく、チベットの政治制度も意味のないものとなり、政府の役人も家督と財産を奪われ、敵によって奴隷も同然にされるだろう。民は恐れと惨めさを味わい、昼となく夜となく忍びがたい日々をすごすであろう。」

第四章 パンチェン・ラマ十

 パンチェンラマ九世の亡きあと、ラサ政府を恐れてアムド(青海省)に残った親中派の側近たち(パンチェンラマ会議庁)とタシルンポ寺の捜索隊は、パンチェンラマ十世の候補者を10人見つけ出した。その中で捜索隊に感銘を与えたもっとも有力な少年を転生者とすることに決めた、しかし、不吉なことになぜか突然死んでしまう。次点の候補者だった少年もあっけなく死に、三人目の候補者もまた死んでしまった。この地域の幼児死亡率が高いといえど異常なことである。結局、候補リストの末だったゴンポツェテンを候補者に決定した。ところがラサ政府も候補を2名選んでいた。事態は膠着しゴンポ・ツェテン少年はアムド(青海省)のクンブム(タール寺)で修行を進めた。

 1949年中華民国、国民党政府は武力をちらつかせゴンポ・ツェテンをパンチェンラマ十世と認めると布告した。それから一ヶ月もたたないうちに国民党政府は中国共産党に追われ台湾に逃亡した。アムド(青海省)のパンチェンラマ・グループは台湾に亡命すべきか決断をせまられ、なぜか毛沢東の共産党に賭ける決定を下した。かれらにはいままで支援を受けた中国人を信頼する条件付けが深くしみ込んでいたのである。モンゴルで仏教がどのような運命をたどったかをよく考え、その後の自分たちの運命を予測できたのならば真っ先に台湾に亡命したことだろう。

 1949年10月1日パンチェンラマ会議庁の所長だったチェン・ジクメは11歳のパンチェンラマの名義で毛沢東に電報を打った。「パンチェンラマがチベットに戻ることと、人民の幸福と平和を期待してチベット開放を待ち望んでいる」と。かれらは、何も知らずに中国共産党に口実を与え、手を貸してしまったのである。


若きパンチェンラマ10世

 孫文は中国は本質的に一つの国民からなり、国家と国民は同義語だった。文化的差異はあっても、いずれ消滅していくものと考えていた。毛沢東もまた民族主義も過度的なものであり、資本主義の終わりとともに姿を消し、人民はインターナショナルなプロレタリアート意識に移行すると考えていた。階級闘争によって民族主義は克服されるのである。

 理屈はともかく、清朝、国民党、共産党に関係なく共通しているのは、周辺の野蛮な民族より漢民族のほうが文化的に優れているのであり、漢民族は弱小民族を支配すべきなのである。

 毛沢東に運命をゆだねたパンチェンラマ会議庁のメンバーには過酷な運命が待ち構えていた。労働キャンプに送られ重労働の中で病死する者、刑務所で拷問を受け苦しみながら死ぬ者、飢えで苦しみ餓死する者、チベットの滅亡に手を貸した罪にたえかね自殺する者、自ら選んだ中国共産党の手によって殺されていったのである。

第五章 侵略されたチベット


 1950年10月7日張国華率いる4万の第18野戦軍がカム(東チベット)に侵入した。迎え撃つ8500人のチベット軍は数日で敗北、カム総督のガプー・ガワン・ジクメはラサに報告しても返事がこないので逃亡した。のんきなラサ政府は3日間歌や踊りのリンカを楽しんでいた。神託により摂政は辞任しダライラマ14世にチベットの運命が託された。ダライラマ十四世はこのとき16歳、まだ仏教修行中の身だった。

 ラサでは事態の打開を探ったが国連を始め、すべての諸国にチベットは見放されていた。インドは建国したばかりで中国との摩擦をさけていた。チベットのダライラマ十四世は流血をさけるためやむなく共産党との協議を受け入れた。その協議の間、中国はパンチェンラマの正式な認定をせまっていた。13歳のパンチェンラマはチベット人民の団結とチベット開放に努力すると語り共産党幹部を喜ばせていた。パンチェンラマの認定をしなければ協議がすすまないので仕方なくダライラマ十四世はゴンポ・ツェテンをパンチェンラマ十世と正式に認定した。その結果、ラサ政府が選んだ2名のパンチェンラマ候補者の運命は分かれた。ダライラマ十四世が気に入っていたデプン寺で修行していたもう一人の少年はその後も修行に励み、パンチェン・ウートル・リンポチェとして尊敬を集め、その後、亡命してアイルランド仏教センターの代表を務めた。タシルンポ寺にいたもう一人の候補者はチベットを脱出の際、捕らえられその後の運命の行方はいまだに不明だ。

 1952年パンチェンラマ十世は中国共産党の第1野戦軍の護衛のもとラサに到着した。先代のパンチェンラマ九世が身の安全を考え、中国の軍隊を率いるのでなければ帰国しないと主張してから30年経っていた。先代が対立していた若きダライラマ十四世とパンチェンラマ十世は初めてようやく語り合った。50年間続き、チベットの命運に影響をあたえた二大ラマの対立は、皮肉なことに共産党のおかげで収束した。

 1953年毛沢東主席はダライラマ十四世とパンチェンラマ十世を北京に招待してチベット自治区準備委員会が発足した。チベットはダライラマ行政府とパンチェンラマ行政府、チャムド解放委員会の三つの行政区に分割された。しかし実質的な支配は張国華を代表とする中国共産党チベット委員会が握っていた。


パンチェンラマ10世と毛沢東とダライラマ十四世

 パンチェンラマ行政府とチャムド解放委員会は改革を要求、ダライラマ行政府は反対した。東チベットではすでに改革に対して抵抗運動が起きていた。中国共産党は武力で鎮圧したが、それがさらに憎悪をうんで抵抗運動はまたたくまにチベット全土に広がった。


第六章 ダライラマ十四世の亡命

 インドのニューデリーのマジュヌ・カテラにチベタンコロニーがある。私がデリーを訪問した時の定宿である。TBCのすぐ近くでダラムサラへの直通バスもでている。ここの一角はインドなのに亡命チベット人が経営するホテルや食堂があり、まるでチベットにいるようでほっとする。ここで出会ったチャンガは1959年にインドに亡命した。よく知られているように1959年はダライラマがインドに亡命した年だ。


ポタラ宮殿


 その年、1959年のラサの正月(3月)は6万人のカムやアムドからの避難民が流入し。さらにモンラム(大祈願祭)のため数万人の僧侶がラサに集まっていた。6000人のカムパゲリラもラサに来て中国の極悪非道ぶりを熱心に語ったので、ラサの緊張はこの上もなく高まっていた。

 1959年3月10日中国軍司令部でおこなわれる観劇の招待のニュースが流れるとダライラマ法王が誘拐されることを心配して数万人のラサの民衆がノルブリンカ宮殿を囲んだ。この時点でもダライラマ法王はデモを解散させて中国軍との衝突を回避させようとしていた。しかし、もはや説得は手遅れで、民衆の怒りは頂点に達していた。進退窮まったダライラマ法王は、神託官(ネーチュン・クテンパ)に助けを求めた。神託官とはダライラマ法王専属の憑依型シャーマンのことである。たちまち神託官に憑依したドルジェ・ダクテン(守護神)は叫んだ。「今夜行け !」神託官はよろめきながらインドまでの亡命ルートを書き出して失神した。そしてドルジェ・ダクテンが去った直後、神託の正しさを証明するかのように中国軍の爆発音が宮殿にこだました。


ポタラ宮殿

 こうしてダライラマ法王は一般人に変装して宮殿を脱出した。周恩来は「反乱はチベット民主化の絶好の機会だ。」と述べた。毛沢東は「逃亡を望むなら好きなように行かせるがよい。上層部とは手を切り、下層階級を教育しなければならない。」そして反乱分子は武力で解決するように指示した。ノルブリンカ宮殿にあつまった何万人もの民衆は銃撃で倒され、うめき声を上げた。ラサの僧院は破壊され市内には無数の死体が横たわった。

 チベットにのこったものも亡命したものにも厳しい運命が待っていた。3月10日のラサ蜂起以後何万人ものチベット人がインドへ亡命した。

 マジュヌ・カテラのチベタンコロニーで出会ったチャンガは11歳の時、父と母と兄弟、姉妹を置いて、たった一人で160人のチベットの人々とヒマラヤを越えた。中国軍に見つからないように昼間は毛皮をまとい隠れ、夜になって歩き、道に迷った時は58才のシャンガ・ラマがお祈りをして道を決め、その道をとにかく信じて進んだ。その多くは射殺されたり、ヒマラヤ越えの最中に命を落とした。1年半歩き続けてラダックにたどり着いた時にはわずか3人になっていたという。しかしインドに亡命したあとも、インドの体になじまぬ気候風土、病気、ショックや悲しみで亡命チベット人は死んでいった。チャンガは一日わずか数ルピーの賃金道路建設作業で生計を立てた。一日働いても10円にもならない金額だ。亡命直後のチベット人に仕事はこれしかなかった。この過酷な作業で命を落とした者も多い。

 1959年3月20日パンチェンラマ行政府以外のチベット全土に戒厳令がしかれた。ダライラマが去ったあと中国共産党はパンチェンラマに期待をかけた。パンチェンラマはチベット準備委員会主任代行に昇進した。


パンチェン・ラマ十世とダライラマ十四世

 パンチェンラマは土地改革や近代的な病院、学校、道路を建設した党を支持した。家族によって無理に僧侶にされた者、貧しさのあまり僧侶になったものは還俗を進めるべきと考えていた。仏教界は贅肉をそぎ落とし、チベット仏教を真摯に学ぼうとするものにだけ政府は援助を与えるべきだと考えていた。パンチェンラマは時代遅れの残酷な刑罰や習慣から脱皮して法による統治とチベットの宗教と文化が尊重されるより近代化した社会主義体制を夢見ていた。

 周恩来と毛沢東はパンチェンラマに反乱に加わらなかった僧院は恐れることはなく、信仰の自由は守られると保証した。しかしラサ決起後タシルンポ寺院に共産党の工作隊が送りこまれると、状況は一変した。民衆に尊敬されていたラマも改革に抵抗している反抗分子として批判の対象となった。

 先代の九世のころからパンチェンラマに使えていた親中派のチェン・ジクメは(党の改革に最も積極的だった)獄中で孤独のうちに死んでいった。                    

第七章 囚われたチベット

 1958年毛沢東は近代的な共産主義社会を作る為に大躍進政策を実施した。ノルマが課させられ、ノルマを達成できなかった地方の指導者たちは水増しした成果を報告したが、党中央は更なる増産を命令するという悪循環に陥った。東チベットでも毛沢東の夢を実現するべく中国共産党の主導のもと改革が始まった。そしてチベットで初めて飢餓が発生した。

 「過去にチベット社会は野蛮な封建主義の支配のもとにあったが、穀物が不足したことはなかった。特に社会の隅々に浸透した仏教の影響により、貴族、庶民を問わず貧者には援助の手を差し伸べるというよき風習があったからだ。人々は食べ物のを乞いつつ生きていくことができ、餓死などありえなかった。」パンチェンラマ

 

 この毛沢東の躍進政策は飢餓、反乱、大量殺戮、投獄、環境破壊、取り返しのつかない仏教の破壊となって現れた。この政策は2000万から5000万と言われ、とほうもない餓死者数を出す結果となった。

 この政策に批判した党の高官がいた。中央軍事委員会副主席・参謀総長、元帥をつとめた彭 徳懐(ほうとくかい)である。彼は農民の出身で農村を視察してその惨状を目のあたりにする。上申書で毛沢東に問題点を伝え政策転換を訴えたが、毛沢東は反省せず逆に自分に対する攻撃と怒った。1959年に開かれた廬山会議で党に対する攻撃と毛沢東に言われてしまった出席者は、彭徳懐支持者も一転して批判を加え彭徳懐ら4人は「彭徳懐反党集団」とよばれ失脚した。毛沢東の逆鱗にふれた彭徳懐は文革中に拷問を受け死亡した。反対者がいなくなった毛沢東は大躍進に誤りなど全くないと強気の発言をし、さらに被害は拡大した。結果として毛沢東の権威が落ち文化大革命につながった。

 「彭徳懐反党集団」というのは中国共産党のカビの生えた常套句だ。21世紀になった現代もダライ集団と呼ぶのは時代錯誤もはなはだしい。中国共産党の行動や様式が硬直化し機械的なパターンに陥っている証拠だ。それが現代には似合わないことに気がついていないことにも驚く。

 とにかくトップの毛沢東がこの調子だから地方の末端指導者は推して知るべしである。ノルマを水増しする虚偽の報告、威圧的な態度、不当な財産没収など日常茶飯事だった。批判する者は反動分子として偽りの告発で罪をきせられ刑務所は一杯になった。

 この著しく公平さを欠く人物がトップになる中国の社会システムの特徴は現代まで続いている。

 周恩来と毛沢東はパンチェンラマに反乱に加わらなかった僧院は恐れることはなく、信仰の自由は守られると保証した。中央の指導で反乱に参加しなかった領主、貴族の各地区の仏教寺院は保護され、闘争をしてはならないことになっていた。しかし、廬山会議で彭徳懐(ほうとくかい)が失脚した後、チベットでは中央の指示は守られる事はなく、過激な行為が一段と激しさをましチベット全土に嵐が吹き荒れた。

 チベット各地で起きていた武装蜂起が当初パンチェン・ラマの行政府があるシガツェ地区では発生していなかった。若きパンチェン・ラマはチベットを近代化としようと中央の指示に従い封建制度の改革を実行していたのである。チベット人でさえもパンチェン・ラマは中国人の手先だと思っていた。パンチェン・ラマの中では共産主義と仏教どちらも切り離す事はできなかった。

シガツェ

 1959年北京で建国十周年の祝賀行事と会議に出席したパンチェンラマはチベットにすばらしい繁栄をもたらす輝かしい社会主義の勝利について述べていた。皮肉な事にパンチェン・ラマが共産党の勝利を演説していた頃パンチェンラマの両親は財産を没収されていた。パンチェンラマの行政区のシガツェは政策の執行が軟弱であり、無力だったと報告され、より強力な委員会が派遣された。タシルンポ寺の僧侶も逮捕され強制キャンプに送られた。それまで被害がなかったタシルンポ寺も逃れる事はできなかった。ラサではパンチェン・ラマが批判され、パンチェン・ラマ集団は反革命分子として逮捕、投獄された。1959年から61年までの間、中国では飢餓が訪れ数百万人の人々が死亡し、チベットの強制労働のキャンプでは大勢の人々が苦しみ死んで行った。                             

第八章 七万言の書

 1961年1月パンチェン・ラマは毛主席、周恩来首相と会談した。毛主席は機嫌がよく、僧侶が仏教を学ぶことを認め、共産党幹部も有る程度、仏教を知っておく事を認めた。周恩来はパンチェンラマの両親の財産を没収したのは間違いであり、徳政を行い、人民の負担を軽減し、元気を回復させることを指示した。パンチェン・ラマは自分の意見が尊重されていると感じた。

 中央の指導者はパンチェン・ラマが富裕層の指導者であり彼の口から出てくる指導の誤りとは貴族の利益保全と考えていた。中央は会議に忙しく大衆と接触することもなく、実際に被害を受けていた大多数は貧乏な農牧民だったことの理解はなかった。中央が認めたのはいささか改革が性急すぎると感じただけであり、革命に誤りはなかった。ささいな誤り、少々のやりすぎは、つきものであり末梢的な事だった。


破壊された仏像 ラカン・マルポ

 四川、青海、雲南を視察したパンチェン・ラマは党の指示が正しく行われず、誤りが正されるどころかチベット族が貧困にあえいでいるの知った。あの美しかったパンチェン・ラマの生まれ故郷、カム・青海はすっかり荒廃していた。

 視察した地区で民衆が貧しく食事の為のお椀さえないのを見て自分の金で茶碗を買い大衆に与えた。パンチェン・ラマはその地区の幹部を激しく批判した。

 「かつてチベットは民衆が僧侶に布施をするだけだったのに、リンポチェが茶碗を買って大衆にやるなどということは聞いた事もない。昔は乞食も茶碗は持っていた。」パンチェン・ラマはテーブルを叩き、烈火の如く大声で怒鳴った。この激憤はのちに社会主義を攻撃したことの罪状とされた。

 チベット自治区の責任者は中央に「人民は解放され、生産は発展し、生活は改善された。」と報告し続けた。パンチェン・ラマは中央の正しい指示は地方に伝わらず、下の実情は責任者が真実を言う勇気がなく、虚偽の報告ばかりするので上に伝わらないと考えた。パンチェン・ラマは党の中央とチベット大衆の架け橋になろうと決心をして意見書を書き始めた。20代前半のパンチェン・ラマは若く血気盛んだった。社会主義の理想に燃え、誤りを正す事は自分の責務と感じていたのである。

 「民主改革闘争が行われたところでは二つの嵐が吹き荒れました。例えば、もし闘争を進めたいと思えば、たとえその人に特別重大な過失がなくても重い罪を捏造し、かつ大げさに思うにまかせて無実の罪をなすりつける、なんら根拠もないばかりか、ますます激しく狂気じみたひどい攻撃を加え、あろうことかその人を無実の罪に陥れる。その結果、たくさんの善良な人々が濡れ衣を着せられたのです。しかもこのような狂気を行った人々をかえって褒美を与えて表彰し、事の真偽を調査することもなく、しかるべき実態の把握もなされなかった、これがその吹き荒れた嵐の一つです。…ひとたび闘争が始まれば、叫び声と怒号の下、殴る蹴るの残酷な肉体的暴力を一人一人から受ける、ある人々は大きな鍵や棍棒を使って闘争の犠牲者をひどく打ちのめします。それは彼が身体中から血を流し、気を失って倒れ、手足を骨折するなどの重症を負うほどのものでした。その場で絶命した人もいるほどです。これが二つ目の嵐です。」 パンチェンラマ        

第九章 幽閉されたパンチェン・ラマ
 

 パンチェン・ラマの意見書を知った側近はこぞって反対した。党の中央を批判した者は失脚したからである。ある日、経堂で、パンチェン・ラマの教師だった年老いたニューチュ・リンポチェは頭を地面に付けてパンチェン・ラマに礼拝した。パンチェン・ラマは緊張した。パンチェン・ラマにとって、神も鬼も恐れぬ老師の地面に頭を付けてのお辞儀は大変怖かったのである。

 ニューチュ老師は静かに話した。「実情は何回も中央に報告され、解っているはずです。解決出来るのなら、とっくに解決出来たはずであり、上が解決したくないのなら、意見書を何回、中央に書き送っても、何の利益にもなりません。それどころかかえって、災いをもたらすのではないかと心配でなりません。私は何回も占ってみましたがすべてよくありません。」老師は教え子の身を案じた。

 パンチェン・ラマは「毛主席、周首相、李部長は私のやり方は正しく、真実だといってくれている。その私を捕まえるはずがないでしょう。」と自信たっぷりに答えた。正しい事実を党の中央に説いて聞かせれば、必ず不正は正されるとパンチェン・ラマは信じて疑わなかった。

 「ダライラマ法王が去ってしまわれた今あなたに不幸があったなのなら、チベットの民は頼るものを失ってしまいます。」ニューチュ老師は涙を浮かべていた。

 「改革が成功して仏法が栄えチベット人民が幸福にさえなれば、私が辛い目にあったとしても、なんでもありません。」ニューチュ老師はパンチェンラマを説得する事は出来なかった。逆に説得され原稿の手直しを手伝った。

 意見書は何回も書き直され慎重に漢語に翻訳された。心血をそそいだ意見書は七万字にも及んだ。意見書は「七万語の書」と呼ばれた。1962年6月「七万語の書」は印刷され中央に送られた。同時にパンチェンラマは周首相、李維漢中央統一戦線部長、習仲勲国務院総理秘書長と会見し,直接意見を述べた。このときパンチェンラマは23歳だった。8月にチベット工作委員会の会議が開かれ「七万語の書」をどのように執行するかの討議が行われた。パンチェン・ラマは新しい時代の訪れを感じておおいに喜んだ。

 「七万語の書」はパンチェン・ラマが目撃した事実をありのままに述べたにすぎないが、それは指導部のチベット政策がどのような結果をもたらしたか、見過ごすことができないくらい詳細に書かれていた。つまり指導部の失敗を痛烈に批判していたのである。当然「七万語の書」が表にでることはなかった。

 その一ヶ月後、北戴河で会議が召集され責任者が呼ばれた。その会議で毛沢東はパンチェン・ラマの後ろ盾となっていた李部長を「投降主義をやっている。」と名指しで批判した。パンチェン・ラマに妥協譲歩しすぎているというのである。習秘書長も批判にさらされていた。習秘書長は周総理の秘書長も務めていてパンチェン・ラマとの仲介役となっていた。罪状はパンチェン・ラマを放任させたというものである。間もなく毛沢東の学友であり歴戦の革命戦士だった李部長と習秘書長は役職を解任された。

 権威のあるものが重大な誤りを犯したと誰かを告発すれば、それに異議をとなえることはできない。もし、立場と態度を明確にしなければ反党集団の仲間にされ今度は自分に災いが降りかかってくるのである。

1962年10月チベット工作委員会はパンチェン・ラマの批判を開始した。パンチェンラマは自分に誤りがあるとは断固として認めなかった。ゲルク派で倫理学の修行を長年つんで鍛えられた頭をもったパンチェン・ラマは理づめで反論した。当然、委員会との関係は悪化しパンチェン・ラマは置物のような存在となった。

 1962年10月中国はインドと武力衝突をして激しい戦闘をはじめた。軍人は党中央から表彰されチベット軍区の司令官張国華の声望は高まった。

 パンチェン・ラマは一年間幽閉され、意気消沈した。考えれば考えるほど自分のどこに誤りがあるのか全く解らなかった。タシルンポ寺から占い師を呼んで占ったり、夢を占ったりしたが満足のいく回答は得られなかった。

 1964年の正月ラサで行われた大祈願祭( モンラムチェンモ)でパンチェン・ラマは一万人以上のチベット民衆の前で反動分子であるダライラマ批判をするよう強要された。出てきた言葉はダライ・ラマ法王万歳だった。中国官僚が期待したことの反対の発言はパンチェン・ラマの凋落を決定した。

 1964年9月、張国華はパンチェン・ラマを糾弾する為に50日間の会議を開いた。「七万語の書」で批判された幹部達の情け容赦のない復讐がはじまった。パンチェン・ラマは自分の誤りと罪状を自白するように強要された。今までチベットを良くする為に中国に協力してやってきたのに、どうしてこのように屈辱を受け攻撃されるのかパンチェン・ラマは我慢ならなかった。年若く血気盛んな若者であったパンチェン・ラマは時には茶碗を投げつけ、テーブルを叩き、大声を上げ、資料を引き裂いた。批判が激しいほど真っ向から対決し理詰めで反論した。パンチェン・ラマのこうした態度は怒りを呼び、さらに激しく糾弾された。

 パンチェン・ラマの自宅は捜索され、飼っていた犬や馬、ジープなどは反革命武装反乱の罪状の証拠とされた。パンチェン・ラマが作った学校は反革命軍の養成所とされた。

 こうして革命に協力した親中派のパンチェン・ラマとその側近は人民の最大の敵となったのである。パンチェン・ラマの個人教師だったニューチュ老師の恐れは現実となった。

 1964年12月全国人民代表大会が北京で開かれ、敬愛する周総理によってパンチェン・ラマは解任され、北京の自宅に監禁された。1966年に文化大革命が起きるとパンチェン・ラマは北京の自宅から突然、拉致され独房に入れられた。保釈されるまで、誰からも話しかけらることはなく、全くチベット語を話すことは出来なかった。話し好きだったパンチェンラマは約10年間、監獄の中で孤独に耐えた。パンチェン・ラマの消息は不明となった。チベットでは死んだと噂された。
                              

第十章 パンチェン・ラマの帰還

 1976年1月に周恩来が死去、9月に毛沢東が亡くなり、新しく首相となった華国鋒は四人組を逮捕した。1977年8月、文化大革命は終結した。

 1977年10月10日パンチェン・ラマは釈放された。9年8ヶ月の監獄生活であった。すでにパンチェン・ラマは37歳になっていた。何百という僧院は略奪を受け瓦礫の山となるまで破壊つくされていた。忠実な側近たちは死亡あるいは労働キャンプに送られ消息は不明だった。パンチェン・ラマ行政庁は消滅していた。かつてパンチェン・ラマの元に訪れる人は群れをなし、夜も煌々と電灯が輝いていた。今は閑散として誰も訪れる人はいなかった。出かけても警護の車も先導車もなく、彼の前にひれ伏す人々もいなかった。

 パンチェン・ラマは北京を離れる事は許されなかったが普通の市民として暮らした。毎日北京駅から天安門までジョギングして広場で一般市民とともに体操をした。

 1978年、北京駅で出会った国民党将軍の娘で元人民解放軍の軍医であった李潔とパンチェン・ラマは結婚した。パンチェン・ラマは仏教の戒を返上して、俗人になり娘が生まれた。中国の言いなりになって還俗したと考えたチベット人はパンチェン・ラマを軽蔑した。チベット人にとって神聖な活き仏であるパンチェン・ラマが僧の戒律を返上して中国女性と結婚することは屈辱だた。多くの人は中国に強制されたと考えた。


 1978年から始まったトウ小平の「改革開放」政策によって胡耀邦は党総書記に就いた。その3ヶ月後に胡耀邦はチベットに私的な訪問を行った。チベットは繁栄しているはずなのに、集団化により経済は壊滅し、民衆は極貧生活にあえいでいた。胡耀邦は自治政府のトップを漢族からイ族に変え、農業は自由化して税金は免除した。チベット文化の復活もゆるされた。

 1980年パンチェン・ラマは再び党の重要なポストに帰り咲いた。トウ小平はパンチェン・ラマを自宅に招いて親しく語った。「あなた自身の活動は思い切ってやってかまわない。文化大革命が間違いだったと発言しても、心配はいらない、これは党中央の指導者の意見だから」

 1982年パンチェン・ラマは18年ぶりにようやくチベットに帰国した。自治区にはトウ小平の改革に反対する官僚も多く、パンチェン・ラマを寝返って要職に就いている側近もいた。一万人いたタシルンポ寺の僧侶で残っていたのはたった9人だった。そのなかにはパンチェンラマに暴力をふるって体制に迎合して仏教界の高い地位に就いているタシルンポ寺の僧侶もいた。

 30代のパンチェン・ラマはエネルギーに満ちあふれていた。全国人民代表大会で常務委員会委員長に選ばれると精力的に仕事をこなした。何百という寺院を修復し、チベット語の古典を復刊し、チベット語で学校教育を受ける権利を取り戻した。人民服からチベットの民族衣装に変える権利も勝ち取った。

 1988年チベットの開放政策をしていた胡耀邦は失脚して、チベット自治区書記の伍精華は更迭された。ラサでは大規模なデモが発生していた。伍華精は僧侶らのデモにどう対応したらいいか悩んでいるうちに倒れ北京に搬送されたのである。左派の役人たちは爆竹を鳴らし、祝い酒を飲んだ。そして「チベットの後ろ盾となっていた胡耀邦を打ち負かしてやった。伍華精もチベットにもどれまい。」と言い放った。

チベット自治区書記の後釜に任命された胡錦濤はさっそくデモでとらえた僧侶を公開裁判、即刻処刑してトウ小平の期待に応えた。                                

第十一章 パンチェン・ラマ10世の悲劇

 胡耀邦のチベット開放政策が幕を閉じ、再び強硬派の締め付けが始まってきたがパンチェン・ラマはタシルンポ寺の霊塔の再建の費用を国の援助から引き出す事に成功していた。座主であったパンチェン・ラマが不在の間タシルンポ寺は壊滅的な被害を被っていた。歴代のパンチェン・ラマの遺体はまき散らかされ、霊塔は破壊されていた。タシルンポ寺はパンチェン・ラマの運命と同体だった。パンチェン・ラマが失脚すればタシルンポ寺は破壊され、戻ってくると再び富と権力を手にした。


タシルンポ寺

 1989年1月パンチェン・ラマは懸案だったタシルンポ寺の霊塔落成法要の為にシガツェを訪れた。当時チベット自治区の党書記だった胡錦濤も一緒だった。国家は金109キロ銀1000キロ銅5639キロそのたもろもろの資材を投じたと宣伝した。パンチェン・ラマにとっては霊塔落成法要は暗黒の日々の終わりを意味していた。

 「過去のあやまちを隠さない中央政府の勇気ある行動で、宗教政策の具体化の一環でもあります。歴代のパンチェン・ラマはみな国家統一支持の立場にたっており、霊廟の再建は歴代パンチェン・ラマの功績に対する肯定でもあります。このことについて、チベットの住民や仏教徒は大変喜ぶでしょう」パンチェン・ラマは法要前のスピーチで中国に迎合する賛辞を贈った。
しかし、そのあとのスピーチは物議をかもした。

 「歴史的にチベットは経済が遅れていましたが、過去の経済政策の失敗で、更なる打撃を受けました。チベット平和解放以来、経済は確かに成長しましたが、それ以上の破壊も有りました。チベットの払った代償は、得たよりもはるかに多かったのです。」パンチェン・ラマは露骨にしかも激烈に語った。中国の失政を明らかに語っているこの部分はパンチェン・ラマ暗殺説の根拠の一つになっている。

 「経済改革を実施すると同時に、綱紀粛正もすべきでしょう。チベットにとって最も必要なのは、能力・学識の有る幹部で、日和見主義の凡庸な人物ではありません」辛酸をなめたチベットの人々は粛正をおそれた日和見主義の凡庸な人物がパンチェン・ラマを暗殺したと考えたのも無理はなかった。このパンチェン・ラマの発言のあと胡錦濤はパンチェン・ラマは祖国統一に力を尽くしたと述べ自分もチベットともに経済発展に全力を尽くすと話した。

 パンチェン・ラマにとっては霊塔落成法要は暗黒の日々の終わりを意味していた。霊塔が暴かれ、自身は縛り上げられ、罪状を記したプラカードを首にぶら下げ頭をたれさせられて、通りをひきまわされて、罵倒され、つばを吐きかけられた日々があった。群衆の先頭に立ってパンチェン・ラマに暴力をふるった僧がいまや党の高官や仏教界の重鎮となっていた。

 1月22日この権力側に寝返った人物も胡錦濤とともに落成式に出席していた。中国政府にとって落成式はチベットに平和と宗教の自由が戻ってきたことを世界に示すちょうど良い機会だった。1月27日には一般大衆の式典があり、祝賀会があり、歌と踊りが披露された。凍てつく午前1時頃、疲労困憊したパンチェン・ラマは自室に引き上げた。1月28日午前4時胸の痛みを訴えて医師がよばれた。治療をうけ再び眠りにつき午前8時に目が覚めた5分後パンチェン・ラマはあっけなく他界した。

 霊塔は修復されパンチェン・ラマの名誉は回復された。52歳をすぎたパンチェン・ラマは中国中央の指導に精通し、思慮深くなり何もかもが希望にみちていたように思われた。悲しみのあまり僧たちはこぞって頭を壁に打ち付け壁が血だらけになった。誰もが泣き叫んでいた。どこからともなくパンチェン・ラマは毒殺されたとチベット人が騒ぎだした。

 1989年1月29日パンチェン・ラマの告別式のあと胡錦濤はラサに戻り警察と公安部隊に警戒態勢を取らせた。2月6日、胡錦濤は、予定されていた、数万人の信者を集めて執り行われる大祈願祭( モンラム・チェンモ)の中止を勧告した。2月後半から3月にかけてのチベットの正月はもっとも注意しなければならないことを中国は学んでいた。

 1989年2月15日北京の人民大会堂で政府の要人が参列してパンチェン・ラマの告別式が行われた。ラサから3200キロ離れた北京であれば安全だと判断した結果だった。告別式に出席したチベット人は満足したと報告された。パンチェン・ラマが死去した1989年はラサ蜂起30周年にあたっていた。

 1989年3月5日ラサでチベット民衆のデモ隊に警官が発砲し激昂した群衆が武装警察と消防の車輌20数台を破壊した。外国人観光客は、死者500人から800人と語った。胡錦濤は戒厳令をしいた。戒厳令下でもラサでは投石や騒乱は続いた。
1989年4月15日に胡耀邦は政治局の会議上で心筋梗塞を起こして死去した。胡耀邦の死去をきっかけに北京の大学生が民主化を要求、共産党の腐敗一掃を求めてデモ行進をはじめた。

 1989年6月3日深夜、天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊を「人民解放軍」が武力弾圧して多数の死傷者がでた。六・四天安門事件である。   


参考文献
ジャンベン ギャツォ 著 「パンチェン・ラマ伝」 平河出版社
イザベル ヒルトン著 「チベットの少年」 世界文化社
ペマ・ギャルポ 著 「日本人が知らなかったチベットの真実」 海竜社
ピエール=アントワーヌ・ドネ 著 「チベット受難と希望」 サイマル出版会
グレン・H. ムリン 著「14人のダライ・ラマ」春秋社


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