サムイェーの宗論
Samye Monastery

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サムイェー寺
仏教の伝来
サムイェー寺の建立
ヘポ・リの丘
虹の身体
サムイェーの宗論
摩訶衍(マカエン)
カラマシーラ

サムイェー寺(サムエー寺)へ向かう

ラサを訪問中の3日間、高山病と風邪の症状で寝込んでしまった。このころのラサは珍しく毎日夕方に雨が降っていた。近くの食堂まで身体をひきずって毎日一食約70円の黒粥を食べるだけの毎日だ。身体がだるいが一応歩けた。旅をすると必ず一回は寝込む。

今回もチベットに入った通過儀礼なのだから、無理をしないで自然に経過するのをまったら3日で終了した。これでチベットの土地に調和するように肉体組織が組み替えられた。上昇する月のように、みるみる底なしの力が湧いてくる準備完了だ。

ラサ市街

翌日いよいよ、念願のサムイェー寺に出かけることにした。本当は旅行会社でツアーを組んでラサの公安庁から許可証を取らなくてはいけないのだが、すぐに動きたかったのとイケイケの躁状態で調子よかったので、翌朝、巡礼チベット人しか乗っていないバスに乗って朝8時にラサを出発した。バス代は40元だった。公安に見つかれば高くつくが罰金ですむ。

朝8時にラサを出発したバスは午後1時にサムイェー寺にあっさり到着した。サムイェー寺に訪れる巡礼者はここ数年増加し、毎年約述べ3万人の人々がやってくるという。

サムイェー寺の食堂に入ると、大勢のチベット人の巡礼者がお茶を飲んでいた。外国人は私たちだけだったが混じってお茶を飲むことにした。小さなポットだと思ってチャイをポットで頼んだら、大きな中国製の魔法瓶にお茶が入ってでてきた。2人で飲んでもとても飲みきれない。これで約50円だ。

1962年にパンチェン・ラマが書いた請願書によると1959年のチベットのラサ蜂起後に97%の僧院が破壊されたと述べている。サムイェー寺も破壊は免れず伽藍の屋根は剥がされ、80年代に修復されるまでサムイェー寺は無惨なすがたをさらしていた。


80年代のサムイェー寺 屋根がはがされている
(松本栄一氏撮影『チベット』より)

サムイェ寺はチベット・インド・中国の折衷様式で建築されたといわれる、その構造は近くのヘポ・リの丘に登るとよく解る。

世界の中心である須弥山・カイラスを象徴するウツェ大殿が中心にあって立体マンダラになっている。そして須弥山の周りに浮かぶ四つの大陸を仏塔やお堂が表している。


2004年サムイェー寺

仏教の伝来

最初にチベットに仏教がもたらされたのは古代チベット王朝の最大の英雄といわれるソンツェン・ガンポ王(581年〜649年)の時代だ。古代チベット王朝は普通吐蕃王朝と呼ばれる。ネパールから嫁いで来たティツン妃と唐から嫁いで来た文成公主(ぶんせいこうしゅ)の二人の王妃によって仏教が伝来したとされる。

チベットは現在、中国に侵略されたままになっているが、この頃のチベットは敦煌を占領し唐の都長安を攻めるほど圧倒的に強かったのである。

唐の文成公主は最初、息子のクンソン・クンツェン王に嫁いだのだが23歳の若さで夭折したので父のソンツェン・ガンポ王が帰り咲いて唐の文成公主はその妃になったということである。三年間の結婚生活ののちソンツェン・ガンポ王は69歳で死去。唐の文成公主は20歳と66歳の親子に嫁いでそれぞれ3年ずつしか結婚生活をおくらなかった事になる。文成公主はこのあと40年後の680年に亡くなる。

ソンツェン・ガンポ王は観音菩薩の生まれ変わりとされているのでダライラマ法王はソンツェン・ガンポ王の生まれ変わりでもある。

サムイェ寺の建立

八世紀の中頃、吐蕃王朝の国王、ティソン・デツェン王は仏教の国教化を図ってインドのナーランダ大学から後期中観学派を代表するシャンタラクシタを招いてサムイェー寺の建立を始めた。 しかしチベット土着のボン教の反対にあって工事がなかなか進まなかった。それもそのはず、このあたり一体は古くからのボン教の聖地だった。

困り果てた王は、そのころネパールで暮らしていた密教の成就者パドマサンバヴァを呼び寄せた。パドマサンバヴァ( Padma sabhava 蓮花生大師 グル・リンポチェ )はチベットに半年しか滞在しなかったといわれるがその影響力は絶大でチベットで最も優れた師として、ニンマ派の宗祖として、そして偉大な霊能力をもった密教行者としてチベット民衆に最も人気がある。

パドマサンバヴァはたぐいまれな呪術力を駆使して土着のボン教の神々を調伏し、ようやくサムイェー寺は創建(779年)された。そして6人の僧侶の授戒がおこなわれチベットではじめての仏教教団がサムイェー寺に誕生した。チベット最古の僧院と言われる由縁である。

サムイェー寺創建後、シャーンタラクシタは非業の死をとげたとされている。 サムイェー寺にシャーンタラクシタの頭蓋骨が寺の宝として保存されているが、見てみると、形がいびつでとても人間の頭蓋骨にみえない。

シャーンタラクシタの頭蓋骨(サムイェー寺パンフレット)

ヘポ・リの丘

サムイェー寺はヤルンツァンポ河北岸のダナン(扎嚢)県にあって、いままでは、河を渡る橋と道路がなくて、小型の木造ボートで河を渡っていた。2001年にツェタンからサムイェー寺に到る道路と橋が開通したので、直接バスを乗り入れことが出来るようになった。昔は2時間弱かけてボートで渡り、雨で増水する季節には風雨に吹きさらしとなり、文字通り命がけだったようだ。

サムイェー寺の裏手にあるヘポ・リの丘は昔はボン教の聖地だったところで、ゆっくり歩いても30分ほどで頂上にでる。ただし高地なので、急ぐとすぐに息切れがする。登るにつれ徐々にそのサムイェー寺の曼荼羅図が姿を現してくる。夕方の為か、誰もいない。そのまま曼荼羅瞑想ができる素晴らしい景色である。

ヘポリの丘から眺めたサムイェー寺

サムイェー寺を創建時グル・パドマサンバヴァが呪術を駆逐して、ヘポ・リの頂上よりターコイスや珊瑚、めのう、などの宝石を降らせ、土着のボン教の神を調伏したといわれる。

心のきれいな者には今でも、その宝石を見つける事が出来ると聞いたのだが、煩悩で覆われているためか私には見つける事は出来なかった。もっとも、よく探しもしなかったが。

とにかくチベット人は珊瑚やトルコ石が大好きだ。ターコイスは幸運を運んでくると信じられ、安全を守る護身用として、また成功をもたらす守り神として、身に付けている。とくにチベットの女性は、珊瑚、めのう、トルコ石、金、象牙などをはめこんだ、イヤリング、首飾り、胸飾り、腕輪などさまざまな装飾品を身につけている。

宝石を拾うことは出来なかったが、ヘポ・リの頂上からは、それは見事な虹が姿をあらわしてくれた。虹の向こうにはチンプーの渓谷が見ることができる。

虹の身体

サムイェーから急な山道を約四時間登ったチンプーにはパドマサンバヴァが住んでいた洞窟があり、そこで、さまざまな教えをおこなったことが伝えられている。

世界最高の聖地と呼ばれることもあるチンプーだが近年、チンプーの洞窟に住む僧・尼僧が中国政府によって追放されたという事件があった。チベット密教に対する締め付けは今でもあり、最近でもサムイェー寺の13名の僧侶が寺を去ったということである。

             パドマサンバヴァ・グルリンポチェ

パドマサンバヴァはボン教に伝わる修行も仏教に組み込んでニンマ派の宗祖となるが、その教えはゾクチェンとよばれている。「どんな状況でも心をゆったりとさせ、己の本性に気がついている。」「すべてはあるがままでよく、努力は必要ない。」という教えである。本当に何もしなくてもよいと、勘違いしそうである。

そしてゾクチェンの教えが完成した暁には虹の身体が成就するという。この究極の悟りといわれる虹の身体とは、生きたまま粗雑な肉体から光の身体に変容することである。普通の人間には衣類しか見えず、髪の毛を残し消滅してしまったように見えるということである。

ゲルク派の宗祖ツオンカパによると「秘密集会タントラ」を修行しててギュルー(虹の身体)とトゥンギ・ウーセル(光明)を同時に成就することが最高の境地だという。

虹の身体を成就したのはグル・パドマサンバヴァやヴイマラミトラそして、ボン教の24人のラマがいるされる。ナムカイ・ノルブ師によると彼の師匠が1950年代に虹の身体をえたと言っている。

道教には尸解(しか)という仙術がある。 仙人がこの世を去って神仙界に行く前に陽神、玄胎という身体を造り、本体をその神仙界で暮らす身体の玄胎に宿す事によって自分の肉体をきれいに消し去ってしまう方法である。虹の身体に大変よく似ている。

臨済録の中には一人で棺の中に入り、釘を打ってもらい、そのあと皆で空けた所、虹の身体を成就したのだろうか消え去っていたという普化の話がでてくる。

虹の身体は肉体を超えた精妙なエナジー体の事だがチベット仏教ゲルク派では幻身と呼ぶ事もある。


グルリンポチェが瞑想した洞窟のあるゴンパ

カイラス山の麓にマナサロワール湖があるがそのほとりにグル・リンポチェが虹の身体を成就したとされる洞窟があって、訪れた事がある。運良くその洞窟で瞑想をした事が有る。お陰でチベットがスピリチュアルな聖地であることは充分納得がいった。


洞窟の内部

サムイェーの宗論

サムイェー寺の建立当時、チベットは敦煌を占領していたので、中国から敦煌経由で禅仏教がチベットに広がってきてた。そしてついにインド仏教と中国仏教がチベットのサムイェー寺で衝突した。

792年、中国仏教代表の 摩訶衍(マカエン・マハヤーナ・大乗和尚)とインド仏教代表のシャーンタラクシタの弟子カマラシーラ(蓮華戒)は3年間に渡ってサムイェー寺で「サムイェーの宗論」とよばれる論争を繰り広げた。瑜伽行中観派と頓悟禅仏教の対決と言われている。東大寺が創建された1250年前のことである。

ヘポリの丘

摩訶衍(マカエン)

摩訶衍和尚は敦煌出身の和尚で捕虜の身分だったが高僧としてチベットに迎えられ貴族勢力の間で歓迎されたようだ。摩訶衍和尚の主張は北宗禅の流れにそうものだがあの六祖慧能の弟子である神会和尚の弟子との説も言われて複雑だ。

インド中観派は、ブッダパーリタ(帰謬論証派)とヴァーヴァヴィヴェーカ(自立論証派)の二つにわかれていた。
さらに、このころのバァーヴァヴィヴェーカの学派(自立論証派)はシャーンタラクシタの学派(瑜伽行中観自立論証派)とバーヴァヴィヴェーカの学派(経量行中観自立論証派)の二つに分かれていた。

パソコンのソフト業界はインド人が大きな位置を占めているように、一般的に、インド人は数学的思考に優れていて論争好きである。 インドの仏教は事物がそれ自体として存在できるかどうかで多数の学派が緻密な論理を展開した。チベットでシャーンタラクシタは仏教最高の哲学者と評価が高い。

敦煌より発見された摩訶衍(マハヤーナ)和尚の遺文「頓悟大乗正理決」では「六波羅蜜などの修行は必要か?」のカラマシーラの質問に「世俗諦(相対的真理では劣ったものは修行が必要)と勝義諦(究極の真理では言語や思考を超えているから必要、不必要と語ることもない。)の両方で答えているので、頓悟といっても論争の妥協の産物なのか神秀の北宗禅の教えに近い。」

カラマシーラが問う、「それ以外の六波羅蜜などの法門は、必要とするのかしないのか。」
摩訶衍和尚答える、「世俗的な真理では、六波羅蜜も究極的な真理を示すために方便で説くのであって、不要でもないのである。究極的な真理では、言語や思考を超えた知恵のごとくであるから、波羅蜜などの諸法門は必要あるいは不要と語ることもない。それは経典にも広く説かれているのである。」(頓悟大乗正理決)

「有るとも無いとも観察せず、妄想をはなれて何も思わなければ如来禅である。」修行は仮のもので、無想、無心、無思を達成すれば一瞬の内に悟り、輪廻はそのまま涅槃である。これがチベット人が頓門派(とんもんは)と呼ぶ摩訶衍和尚の主張である。

カラマシーラ

漸門派(ぜんもんは)と呼ばれるカマラシーラ(740〜797年頃)はシャーンタラクシタ(725〜784年頃)(瑜伽行中観自立論証派)の弟子であり玄奘三蔵法師も学んだインドのナーランダ大学の優秀な学僧であった。当然倫理的思考は得意である。

摩訶衍の「何も思わない。」にカマラシーラは「単に考えないことによつて仏になれるなら意識を失って気絶した者も仏になっているであろう。」なんて答えてる。

カマラシーラによると摩訶衍和尚が述べる「何も思わない。」は毒入りの言葉であり、正しく観察する般若の智慧を捨てる事であり、大乗の教えを根本から否定する大罪である。』と摩訶衍和尚を厳しく批判した。カマラシーラの立場は三乗の学習、修行のそれぞれの段階を経てはじめて成就するのであって、それを無視するのはあやまりなのである。

学習というのは、小乗のアビダルマ、唯識、の学派を学習して、小さく低い教えと、大きく高い教えの違いを見分ける批判精神を養ってから最後に最高の教えの中観に進んで般若の智を得るのである。

瞑想修行の段階というのは第一の段階は心をある対象に集中させ心を静かにさせる。正しい教えを研究してそれが誤りでないことを確信する。第二の段階は外の存在は心と別に存在するのではなく、認識の表象にすぎない事を知る。 第三の段階は心は対象からはなれた真如である事を理解する。 第四の段階は真如が対象であることをやめ、思考をこえた無分別智を得る。

つまりこれらの利他行、慈悲の実践の段階をふっとばして自己救済のみを考えるのはカマラシーラの立場では仏教といえないのである。


ヘポリの丘から見た風景

当時は文書で論争したので中国語とインドのサンスクリット語をそれぞれチベット語に翻訳して国王に献上されたので文献が残っている。しかし、三か国語が乱れ飛んだことと、お互いが持っているバックボーンもわからないため。おそらく、どっちも、相手が何を言っているか良くわからず、主張が噛み合ずに終わったのではないだろうか。 つまり、同じ事を言っていても文化モードが異なると意味がずれてしまいコミニュケーションが成り立たないのである。

国王がはたしてこの論争を正しく理解したかどうかは怪しいが、歴史的にはこの論争はカマラシーラの中観派に軍配が上がる。中国仏教を支持する有力貴族を押さえるため、おそらく政治的な判断を優先させたかもしれない。 ともあれこれ以降のチベットはインドで滅びた後期の密教をそのまま受けついだのである。

その後、摩訶衍は敦煌に戻されたがチベットでは争いが続き、カマラシーラは屠殺人に絞め殺されたとつたえられている。

参考文献
大乗仏典 敦煌 中央公論社
チベット密教の祖 パドマサンバヴァの生涯 春秋社
ゾクチェンの教え ナムカイノルブ 地湧社
ダライ・ラマ大乗の瞑想法 春秋社
チベット 下 山口瑞鳳 東京大学出版会
チベット密教 立川武蔵 春秋社


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