ツォンカパ Tsongkhapa

                    


ツォンカパ

                     2005年8月17日

 チベット仏教の宗派ではパドマサンバヴァが開いたニンマ派が一番古く、アテーシャ(982〜1054)がチベットに入蔵後、にキュンポ(990〜1139)とマルパ(1012〜1097)からカギュー派が、コンチョク・ギャルポ(1034〜1102)によってサキャ派が始まった。チベット仏教で一番新しくしかも最大の宗派がツォンカパ(1357〜1419)が開いたゲルク派である。

ツォンカパとは「葱(ツォン)地(カ)の人(パ)」という意味で生誕の地はアムド(中国名、青海省)、青海湖の近くにあたる。ツォンはタマネギを意味するする中国語なのでチベット人はツォンカパの別名をジェ・リンポチェとも呼ぶ。生誕の地にはゲルク派6大寺院の一つタール寺がある。現、ダライラマ14世の生家も近い。

伝記によるとツォンカパの母は妊娠する直前に、黄金に輝く観音菩薩の像があらわれて、彼女の中に溶け込む夢をみたそうだ。出産直前には、少年があらわれガラスの鍵で母の胸の扉を開け中にあったツォンカパの黄金の像を洗う夢をみたことになっている。

3歳で優婆塞戒(在家仏教信者の戒律)をうけ、8歳で沙弥戒(出家して正式の僧侶を受かるまでの幼年僧の戒)を受けてロクサン・タクパという僧名を授けられる。16歳で仏教の勉強のため中央チベットに向かう。19歳で当時最高の仏教学者といわれたレンダワに師事する。その後、レンダワとの子弟関係は同等になり最後に師のレンダワはツォンカパの弟子になる。自分より優れた弟子に敬意を表して教師が弟子になる事はチベットでは決して珍しくはないという事である。

ツォンカパは記憶力と理解力が抜群のうえ猛烈に仏教を勉強して難解な唯識派、弥勒の著書「現観荘厳論」をわずか18日間で理解したという。ツォンカパは、24歳で正式な僧侶(具足戒)となり、唯識と中観の講義を開始した。

ツォンカパはチベット中の僧院を訪ね歩いて高名な教師から、ありとあらゆる教えを学んだという。

その中でも1390年ラマ・ウパマとの出会いはツォンカパの人生の中で最も重要な出来事といわれている。ラマ・ウパマはアティーシャの弟子が開いたサンプ寺で仏教を修行した密教の行者でサイキック能力があり文殊菩薩と交信が出来たようである。いまでいうチャネリングである。1392年、ラサ南西のガワドンという所でラマ・ウパマをチャネラーとして文殊菩薩と質疑応答を重ねた。その結果、中観の帰謬論証派が正しい立場である事と「秘密集会タントラ」の「五次第」の理解が深まったことがチベット仏教史上有名な「ガワドンの啓示」といわれている。

その後、4年間の修行を経てツォンカパはラマ・ウパマを仲介せずに直接アラパチャナ文殊菩薩と交信出来るようになったと伝えられている。アラパチャナ文殊菩薩とはサンスクリットの最初の五文字アラパチャナの母音を名に着けた文殊菩薩で、その姿は右手に智慧の剣を左手に般若経を持って少年の姿をしているという。ツォンカパの母が出産直前の夢に出て来た少年がこのアラパチャナ文殊菩薩であるとされている。

ツォンカパはアラパチャナ文殊菩薩のアドヴァイスに従いチベット東部のオカルチェンに隠遁して修行にはげんだ。ある晩、中観思想の五人の巨匠が夢に現れて教えを説きその中の一人がブッタパーリタの中論の註釈書をツォンカパの頭に置いたという。翌朝、夢で示されたその本のページをひもといてみると難解な中観思想の奥義が完全に理解できたという。

中観とは
「この森羅万象が存在するのは空だから、つまり実体を持たないからである。空だから無ではない。すべては縁によって、常に変化して集合離散するのである。」

中観を簡潔に記したが、通常、唯識、中観の修学には何十年もかかり、チベットでも空性をつかむのはもっとも難しいとされている。

主な論書でも、弥勒の五書、アサンガ「アビダルマ集論」、ヴァスバンドゥー「具舎論」、中観の五倫理学書、アーリヤディーバー「四百論」、チャンドラキルティー「入中論」、シャーンティデーヴァ「入菩提行論」、ダルマキールティ「倫理学註釈」などがある。ツォンカパはこれらをすべて暗記して講義したと伝えられている。


顕教と密教の統合

ツォンカパは修学した顕教と密教の統合をアティーシャの「菩提道灯論」に求めた。

アティーシャの弟子が開いたラテン寺で修行していた時、アティーシャとその後継者の3人の弟子が現れてツォンカパの疑問に答えてくれたと伝えられている。その3人はアティーシャの中に溶け込み、法を広めるならそれを助けようといってツォンカパの頭に手を置いたという。こうしてアテーシャから別れた三つの派からすべての伝授を受けアティーシャの教えを再び統合したということである。

1402年、ツォンカパは46歳の時に顕教と密教の橋渡しをする重要な著作ラムリム・チェンモ「菩提道次第大論」を著した。ラムリムとは覚りへいたる順序を表している。釈尊からツォンカパの時代までに、様々な主張の仏典やその注釈があらわれたがツォンカパは時には矛盾するその主張を覚りに到る道筋(チャンチュプ・ラムリム)として一大体系にまとめあげた。

ツォンカパは修行者の段階を上中下の3種類にわけている。下士は、今生ではまだ仏道修行に入ることが出来ないもの、来世に仏道修行ができるように戒律を守り、善行を積む。中士は自分の苦しみだけ解放されたいもので小乗にあたる。上士は菩提心の発願をして生きとし生けるものの苦しみを救う決意をしたもので大乗にあたる。 

覚りに到る道筋

菩提心の実践方法としてラムリムでは利他の学習が挙げられる。 愛語(思いやりのある言葉)、利行(人の利益になる行い)同事(相手と同じ立場に立つ)慈悲の瞑想「アテーシャの因果7秘訣」と「シャーンティディーヴァの自他を平等にして入れ替える修行」が菩提心の修行法として知られている。

六波羅蜜の実践 1、布施 2、戒律を守る(持戒)。3、忍耐(忍辱)4、徹底した努力(精進)5、止の瞑想(禅定) 6、観の瞑想(般若)

ツォンカパはラムリムで止の瞑想と観の瞑想を特に強調する。
止の瞑想は心を一つの対象に集中して(憶念)心を安定させ三昧にはいることである。三昧に入った心を定心(こころがあれこれと動かず定まった心)と呼び日常の心を錯心(錯乱した心)と呼ぶ。

普通は仏画や仏像を観想し、知的な弟子には心の動きを観照する瞑想が勧められる。
修行者は静かな場所に座り、自分の心に現れる思考、記憶、欲望等が自然に起こるにまかせ、入れ替わり立ち代わり、浮かんでは消えて行くのを考えで追わず、受け身で静かに見守る。

ツォンカパは単なる三昧では自我を滅することができないという。つまり止の瞑想だけではだめで次に無我なる法を観察して般若の英知(智慧)を生じたならば解脱を得られるという。これを観の瞑想と呼ぶ。

憶念<三昧<智慧と順序よく学ぶ方法についてツォンカパは仔細に述べている。最後に止と観の瞑想を別々ではなく双修するように強調している。

主観(見るもの)と客観(見られるもの)の区別がなくなる禅の無念無想のように最初から主観と客観を放棄するのではなく、ツォンカパのゲルク派では可能なかぎり主観と客観を区別して、認識対象を明確に把握することを強調する。

ニューエイジ系で瞑想といわれるものをよく聞いて見るとリラクゼーションや誘導瞑想が多い。そのためか精神世界に関心を持つ人で瞑想をボーとして思考が起きにくい状態と思っている人がいた。そもそも雑念という言葉自体が思考を良くないものとする条件付けを受けてしまう。

ツォンカパは三昧を成就しても、ただ単に物忘れがひどくなったり、観察する智慧の力が衰えるだけだと警告をする。止の瞑想と共に対象を正しく観察する観の瞑想の両方を成就してはじめて解脱がえられると述べている。

ツォンカパのラムリムをコメントするのは恐れ多いが言わせてもらえれば、ツォンカパはおそらく禅のことはほとんどご存知なかったと思われる。この件に関してはサムイェ寺で行なわれた「サムイェの宗論」以来、禅は退けられたので生きた禅と会う事も、禅と論争をしたカマラシーラ以外の膨大な禅の文献を目にすることもなかっただろうと思われる。

「有るとも無いとも観察せず、妄想をはなれて何も思わなければ如来禅である。」このサムイェの宗論での摩訶衍和尚の主張だけを読めば観察することをはじめから放棄していると捉えられても仕方のないことだが・・・・・・・・・・・。

今でもチベット仏教の修行している方で禅やニンマ派より、ゲルク派の方が優れていると思っておられる方もいらっしゃるようである。優劣といっても探求者の性質による教えの違いにしか過ぎず、修行方法の違いにしかならないと思う。いずれにしてもチベット仏教がこれだけチベット人の大多数の人に支持されたことはツォンカパのラムリムが有効だった様に思われる。

密教の修行

ツォンカパはラムリム・チェンモ「菩提道次第大論」の後、1405年、49歳の時に密教の修行のプロセスであるガクリム・チェンモ「秘密道次第大論」を著わした。

ツォンカパによると密教の修行に入る前に、必ず顕教の修行を修めていなければならないとされている。

ツォンカパは瞑想を学ぶ方法として、まず瞑想の資料を学ぶこと。 それには誤った教典と誤りのない教典の区別を知ること。 誤りのない教典でも 教典には文字通り理解してよいものと、 文字通り理解せずに背後の意図を汲み取る必要のあるもの、あるいは文字通りに理解してもよいがそれだけでは真実ではないので それ以外の真実を探求をする必要があるもの それらの区別を理解することが必要と述べている。

ツォンカパによる瞑想を学ぶ4つの段階

1、智者から教えを聴く。観の解説書を勉強する。
2、正しい教えと正しくない教えの区別(了義と未了義)
世間一般の真理と究極の真理の区別(世俗諦と勝義諦)を理解する
3、観の瞑想の実践
4、観が成就される

教典による理解はまだ観念としてとらえている段階なので
師についてヨガと瞑想の実践による修行の段階、 そして修行が完成した仏陀の段階となる。

ツォンカパは密教の修行に入る前に師も弟子も慎重に選ぶように述べている。
「ラマが弟子の器を観察しないで、誰に対してもおかまいなく灌頂を授けるならば、器にあらざる弟子は密教の戒律を守ることができないゆえに、現世と来世の二世にわたるあやまちを生ずる。ラマにとっても、非常に多くの過失をなして密教の戒律を犯すことになり、自分自身を完成させることも遠のき、さまざまな障害に妨げられてしまう結果になる。弟子の方でも、ラマの資格を観察せずに、やたらと灌頂を授けられたりすると、悪い師にだまされることになる。どうせそんなラマでは密教の戒律を守れはしないから、自分自身を完成させる基を断絶させられるはめになるうえ、さまざまな障害に妨げられてしまう結果を招くのである。だから、ラマも弟子も、お互いによくよく観察する必要がある。」ツォンカパ「秘密道次第大論」
また師弟関係も最大で12年間はお互いに観察し合うことを求めている。

このような背景にはツォンカパの時代、無上瑜伽タントラは解脱の為ならなんでも許されるとして、性行為を悟りの方便としていたこともあるようだ。

庶民の間では僧侶の種を宿した女は神聖になり、その子も神聖であると信ぜられていたので、それを良い事に片っ端から女性に手をつける偉い僧侶もいた。このように当時のチベットではSEX自体が目的になり女色に溺れた僧侶が多かった。また敵を呪殺することさえ行なわれていたので、仏教が堕落した印象が蔓延していたのである。

シャル寺の名僧プトンによるとチベット仏教はランダルマ王の破仏以前を前期、アティーシャの教え以降を後期にわけられるという。ランダルマ王によって一時途絶えたチベット仏教はインドから迎えられたアティーシャによって復興が始まったといえる。

アティーシャは教えを弟子に伝えたがツォンカパの時代にはその教えは三つの派にわかれてしまっていた。ツォンカパはその三つの派を統合して新しくゲルク派を樹立したのである。ツォンカパの何人かの弟子達はゲルク派の僧院セラ寺とデプン寺、タシルンポ寺をそれぞれ健立し、後継者の弟子がガンデン寺の座主となった。ツォンカパの弟子でもある甥がダライラマ転生仏制度の始まりにより遡ってダライラマ一世とされた。そうしてゲルク派はツォンカパ以降、勢力が増しチベット最大の宗派となったのである。この話でいくとツォンカパはダライラマの伯父さんにあたるのである。

ガンデン寺

ラサの東50キロにガンデン寺(甘丹寺)というゴンパ(僧院)がある。ラサの三大寺院といえばセラ寺、デプン寺、ガンデン寺を示すが、中でもガンデン寺はダライラマ法王が所属するゲルク派の総本山である。今回、是非訪れたいと思っていたゴンパの一つである。

明治から昭和にかけて日本人がチベットに訪れているがラサからガンデン寺まで2日くらいかかったらしい。朝6時45分にラサのジョカン寺前のバス停から出発したバスは9時にはガンデン寺に到着した。

昔の巡礼者は歩いて途中のダク・イェルパに立ち寄って一泊してガンデン寺まで巡礼したのである。ダク・イェルパはソンツェン・ガンポ王が瞑想し、アテーシャが滞在した聖地であり、仏教を弾圧したランダルマ王を暗殺した行者が修行していた地でもある。チベット人にとっては歴史のある史跡である。

ダク・イェルパからガンデン寺まではヤクの毛皮を縫い合わせた渡し舟でヤルンツァンポ河の支流のキチュ河を渡るのだが、そのあとガンデン寺まで900メートルもの高度差がある崖のような急な山道を息を切らしながら巡礼したという。現代では満員の巡礼者を載せたバスが九十九折の坂をぐいぐい登ってゆく。バスを降りるとすぐにガンデン寺の寺院群が山の頂きに張り付くように扇形に広がっているのが見える。

ガンデン寺がある山の頂上は4240メートルだ。酸素が半分くらいしかないので歩くだけで息切れとめまいをおぼえる。頂上に立つと眼下にキチュ河が流れる雄大な風景が広がる。その風景を眺めているうちに内側から懐かしさと共に深い感動がわき上がってきた。 ここはまさしく聖なる場所なのである。

ジェームズ・スワンによると「聖なる場所」というのは独特の雰囲気をもっており、人間を変性意識状態へと導く力を持ち、日常を超えた霊性を帯びた場所ということである。

チベットにはこのような聖なる場所が多数存在する。いやチベットそのものが聖なる場所といっても過言ではない。

ガンデン寺の建立

この地にガンデン寺を創建したのはチベット仏教最後の名僧といわれるツォンカパ(1357〜1419)である。ツォンカパはラサの東方50キロにあるドクリ山を自ら選んで地鎮して、70を越える僧院を建立した。ガンデンとは漢訳で兜率天を意味する。兜率天とは弥勒菩薩が住む天上界の事である。 仏典ではマイトレーヤー・弥勒菩薩は56億7千万年後にこの地上に弥勒仏として下生するすることになっている。この天空のガンデンからチベット語でチャンバと呼ばれるマイトレーヤー・弥勒菩薩が降り立つのである。

ガンデン寺の建立は釈迦牟尼仏陀によって予言されていたとチベット人は信じている。前世でツォンカパは水晶の数珠を仏陀に布施をしており、この少年がガンデン寺を興すことが教典に記されていたという。仏陀はそのお返しに竜王が仏陀に贈ったホラ貝を少年に授けた。ホラ貝は目蓮が預り将来地上に現れた時に仏教が広がる吉兆の印としてチベットに埋めたとされる。ツォンカパはガンデン寺の山の上からそのホラ貝を発掘し、そのようにして予言が成就された事になるのである。そのホラ貝は白い色をしており寺宝としてラサのデプン寺に保管されている。

約4000万年前にインド大陸はアジアに衝突し、そのため隆起してヒマラヤ山脈やチベット高原ができたのである。昔のチベットは海の底だったのである。そのためガンデン寺では貝の化石を沢山見ることができる。

ガンデン寺の悲劇

この地で亡くなったツォンカパはミイラにされ銀のストゥーパに安置された。1913~1923年の間、チベットに滞在した多田等観によると塔は鮮やかな宝石がちりばめられ、さらにその上に金の延べ板が多数巻き付けられたために、ストゥーパはかなり不格好になっていたそうである。やがておとずれる弥勒の時代になれば、ツォンカパが黄泉がえりこの銀の塔を破って出てくるとチベット人には信じられていたという。

1950年、中国人民解放軍がチベットに侵攻した。そして文化大革命後、ガンデン寺は徹底的に破壊され廃墟となった。

<1959年より文化財保存委員会なる組織がずっと、チベット全土の僧院の美術品をそれぞれの価値に従って分類し、カタログを作成していた。こうした美術品は最終的には中国に送り出されることになっていた。年長の紅衛兵が、それぞれの美術品の処理の仕方(破壊するか保存するか)が記されたノートを手に作業を監督した。金、銀、青銅の仏像や高価な錦、古い宗教画などは包装されて封印された。入り組んだ彫刻のある柱や梁は、中国人用宿舎を建設する時に利用するために取りはずされた。以上の作業が終わったところで、太鼓やシンバルやトランペットが景気づけにファンファーレを奏で、紅旗のもと、無理やり駆り出された地元住民が僧院の破壊に取りかかったのである。>

<何千という仏典が威勢のよい焚き火の中に投げ込まれ、焚書の運命を逃れた仏典も、中国人商店の包み紙やトイレット・ぺーパーや靴の詰め物に使われて冒漬された。版木は床板、椅子、農機具の柄に作り替えられた。塑像は挽かれて土に戻され、人々が踏むように路上に投げ捨てられるか肥料に混入された。残りは煉瓦に作りなおされ、公衆便所建設といった特殊な用途に用いられた。かつては祈りの表現であったマニ石は、舗道の敷石に流用された。壁画は、ちょうど12世紀にインドを侵略したイスラム教徒が仏教僧院に対して行なったように、顔の部分を削ぎ落とされたり、目をくりぬかれたりした。寺の屋根を飾る金や青銅の相輪もまた取りはずされ、他の金属と共に熔かされた。略奪のかぎりが尽くされた後に、空っぽになった寺の中にダイナマイトが仕掛けられ、壁が爆破された。野戦用の大砲もまた使用され、3年のうちにチベット全土の風景は、爆撃を受けた都市にも似た痛々しい廃壊の跡に満たされるようになった。「雪の国からの亡命」より>

<ツォンカパの遺体はガンデン僧院には残っていませんでした。1959年、沢山の中国兵が押し寄せて全ての仏像や仏具、仏画を略奪し、寺や僧坊を壊し始めました。全ての経典は火の中に投げ込まれ、貴重品は没収されました。そして、中国兵はチベット人が礼拝して止まないツォンカパの遺体が収められた霊塔を御堂から運び出すと、装飾に使われていた金銀、トルコ石、ラピス、真珠等を奪い取った後、ツォンカパの遺体を焼くように僧侶に命じたのです。銃を突きつけられ、そう強制された僧侶たちは泣く泣く実行に移さねばなりませんでした。だが、一人の学僧が手の一本の親指を袂に密かに隠すことに成功し、それだけが灰になってしまうことを避けられたのです。「チベット証言集」より>

1980年より胡耀邦総書記の指示によりチベットで復興が始まった。胡耀邦はその後失脚した。
あらゆる壁が血で汚されたガンデン寺でもその後、残されたツォンカパの頭蓋骨が新しいストゥーパに安置された。

ガンデン寺の第97世座主リン・リンポチェはダライラマ法王と共にインドに亡命し、ガンデン寺はインド、カルナタカ州ムンゴッドに再建された。その後リン・リンポチェは1983年12月25日81歳でインドで亡くなり、すぐに生まれ変わりが 1989年にネパールで4歳で発見された。現在20才を越えるリン・リンポチェは非常な聡明さを備えているので将来のチベット仏教をになう逸材と噂されている。

世界が苦しみに耐え
生類が苦しみつづけているかぎり
この世の苦痛を取り除くために
願わくはわたしもまたそれまで
共にとどまらんことを
ダライラマ

引用・参考文献

「大乗仏典15」 ツォンカパ 中央公論社
「悟りへの階梯」 ツォンカパ UNIO
「チベット密教 」正木 晃 ちくま新書
「チベット密教 図説マンダラ瞑想法」正木 晃 ビイング・ネット・プレス
「雪の国からの亡命」 アベドン  地湧社
「実践・チベット仏教入門 」クンチョック・シタル 著 春秋社
「チベットの「死の修行」 角川選書 角川書店
「チベット仏教の神髄」 チベットハウス
「チベット密教の瞑想法」 ナムカイ ノルブ 法蔵館
「ダライラマ自伝」 文春文庫
「ダライ・ラマの仏教入門」 光文社
「ダライ・ラマ瞑想入門」 春秋社

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