病気にはどのような意味があるのか


                 2008年01月15日

「病気は学びであって魂が成長をとげる為に必要なレッスンなのだ。」というニューエイジ的な考えがある。しかし、病気の原因を精神的な側面にだけ還元してしまうと、行き過ぎた自己批判をもたらすこともある。自分を責めてしまうのだ。たしかに病気には感情的、精神的側面もあるだろう。だが、それは数多くある神話の一つにすぎない。病気にどのような意味があるのか単純に決めつける事はできない。

以下、ケンウィルバーの「グレース&グリット」から引用

1.キリスト教原理主義
病気は基本的に、何らかの罪にたいして神の下したもうた罰である。
病気がひどいものであるほど、その罪は言語道断なものということになる。

2、ニューエイジ
病気は学びだ。あなたが病気になったのは、あなた自身の霊的成長と進化を続けるために、そこから学ばねばならぬ重要なことが何かしらあるからだ。精神だけが病気を起こす。それを癒せるのも精神だけだ。

3、西洋医学
病気とは基本的に、生物物理学的要因によって生じる生物物理学的混乱である(ウイルスからトラウマ、遺伝的傾向や環境における引き金となる要因まで)。あらかたの病気では、心理的または霊的な治療について悩む必要はない。なぜならそういった非正統的療法は、通常役に立たないし、実際、適正な医学的治療から患者を遠ざけることにもなりかねないからだ。

4、カルマ理論
病気は悪いカルマの結果である。つまり過去世での何らかの非道徳的な行為が、現世において病気という形となって実ったのだ。病気は過去の悪行のあらわれとしては「悪い」ものだが、病気のプロセスそのものが、過去の罪を燃やし尽くし、きれいにするという点では「いい」ものだ。つまりこれは浄化なのだ。

5、心理学
ウッディ・アレンいわく、「怒ったりなんかしないさ。そのかわりガンになるんだ」。これは、少なくともポップ心理学においては、抑圧された感情が病気を引き起こすということを意味している。つきつめると、病気は死の願望ということになる。

6、グノーシス派
病気は幻影だ。現象宇宙は夢であり影であり、幻影の世界から自由になるとき、人ははじめて病気からも自由になれる。それは夢からの目覚めであり、幻影の宇宙を超越した「ひとつ」のリアリティを探すときでもある。〈スピリット〉だけがリアリティであり、〈スピリット〉の中に幻はない。

7、実存主義
病気それ自体には何の意味もない。したがって、それに付与する意味は個人が自由に選ぶことができ、当人はそうした自らの選択に責任を負えばいいだけだ。人は有限にして死すべき存在であり、病気を自らの有限性の一部として受け入れることだけが、正しい態度だ。たとえその病気に個人的な意味を付与しているさなかにあっても。

8、ホリスティック医学 
病気は身体的、感情的、精神的、そして霊的な要因から成り立っている。そのいずれも分けて扱うことはできないし、無視することもできない。治療には、これらすべての次元が含まれるべきである(だが実際には、これがしばしば「オーソドックスな治療の回避」と読み替えられる。たとえそれが助けになるかもしれないとしても)

9、魔術
病気は報いである。「わたしは病気になって当然だ。なぜなら誰それが死ねばいいと思ったからだ」「あまり優秀であってはいけない、きっと何か悪いことが起こるぞ」などなど。

10、仏教
病気はこの現象界にあって、回避しがたい出来事だ。なぜ病気があるのかを問いかけるのは、なぜ空気があるのか問いかけるようなものだ。生、老、病、死はこの世の現象である。これらの現象はみな移ろい行くもの(無常)であり、苦であり、また誰にでも公平に訪れるものとして位置づけられる。悟り、すなわち涅槃を純粋に覚醒することによってのみ、病気は究極的に乗り.越えられる。なぜならそのとき、この現象界そのものもまた超越されるからだ。

11、現代科学
病気が何であれ、それには特別のひとつ、ないしいくつかの理由がある。それらのうちのいくつかは必然的であり、その他はランダムないし純粋な偶然による。どちらにしても病気には何の「意味」もない。あるのは偶然と必然だけだ。


 病気になると自分になにか落ち度があったと、自分をせめることがある。しかしあらゆる生物が病気になる。病気になった動物や植物も心がけがわるかったのだろうか?

 仏典によるとゴータマ仏陀は酷い下痢に悩まされた。仏典を文字通りに受け取れば、仏陀は豚肉を食べて食中毒になった。仏陀は神通力で回避したり、たちどころに回復させたりはしなかった。結局、ゴータマ仏陀はクシナガラで痛みと苦しみの中で息絶えた。仏陀が豚肉の食中毒で死んだのでは格好が悪いのだろうか。仏陀が食べた「スーカラ・マッダヴァ」がキノコだとする説をとなえるものは多い。

 聖ラーマクリシュナは、喉の激しい痛みのある喉頭癌で死去した。
ラマナ・マハリシは夜間、村中に響く悲鳴をあげて苦しみ、それが続いたのち胃癌で亡くなった。
聖フランチェスコは血を吐き、痛みとひどい苦しみの中で息絶えた。
聖ベルナデッタは骨の癌か結核で亡くなり、ルルドの泉を掘り当てたが自身の病気には奇跡は起きなかった。

 クリシュナムルティは膵臓癌でこの世を去った。癌と知ったとき「私はどんな悪い事をしたのだろう。」と彼は呟いた。 クリシュナムルティは病院でモルヒネと点滴を受けながら一人の人間としてこの世を去った。

 病気で亡くなった聖人は山ほどいる。中には聖人が罪人と同じ病気で死んでは困ると考える人々もいた。そこで、解釈も山ほどある。いわく「前世で犯した罪やカルマを相殺したのだ。」「まわりの人のカルマを引き受けたのだ」まるで聖人はカルマを吸うスポンジのようだ。「苦痛の中でも神を失わないことを教えるために方便として病気になった」「最後に自我を焼き尽くす為にわざと病気になったのだ」「病気で死んだのは彼らは真の聖人ではなかったからだ」などなど

 解釈はともかく「こころがリラックスしていれば病気にならない」「病気になるのは心に問題があるからだ」は、かならずしも正しい考え方とはいえないだろう。

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引用・参考文献
ケン・ウィルバー「グレース&グリット」春秋社
ラリー・ドッシー「癒しのことば」春秋社


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