「星野道夫の仕事」朝日新聞社
クマにも怖いという感情がある
私が住んでいる地域ではブナの実が少ない年はしばしばクマが出没する。中には畑仕事を終えて家に戻った所、主人に代わって台所に座って昼食をとっていたクマもいた。わたしも野生のクマと遭遇したことがあるが、ここは全国でもクマの生息数が多い地域だ。とにかくクマの話題はよく耳にする。
岩手県に住む73才の老人は自宅から500メートル離れた山林で後方から突然クマに顔を殴られた。その後馬乗りになられて、囓られる思った。柔道の技は覚えていたので、たまたま足がクマの股に入ったから『ワァーッ』と叫んでクマを巴投げで投げ飛ばしたそうだ。さらに逃げ去るクマを追いかけ、「25メートルぐらい離れたところで立ち止まったが、こっちが逃げるとやられると思い追ったということである。左手甲に約2センチの裂傷と上唇の打撲で全治約1週間のけがですんだそうである。
野生生物学者のリン・ロジャースが野生のクマの血液採集をしているときの事、クマが麻酔から覚めては突然たちあがり突いてきたことがあった。とっさに思いっきり突き返した所クマは驚いて逃げ去った。その経験からクマにも怖いという感情があることを知った。彼はクマが何を怖がり、怯えさせないようにするにはどうすれば良いか行動を観察した。クマの恐怖心を通して学んだのである。クマが緊張した時、深呼吸したり両耳をピンとたてたりする。そんなときは近づかない方がよい。クマは自分だけの空間を保ち落ち着きを取り戻したがっているのだ。あっちにいけとクマ達にいわれているうちに、クマの信頼を得るようになり、すぐそばを歩いたり、巣穴から数メートルの場所で夜を過ごすことも平気になったという。
クマは嗅覚と聴覚に優れていて疑わしいものには用心深い。人間の前に滅多に姿をあらわさず内気で逃げ足が早く、人間が挑発しない限り、無害な動物だという。
野生のクマが黄昏時に静かに座って沈みゆく夕日を見つめていた報告がある。私はクマが夕日の美しさに感動していてもかまわないと思っている。
1960年代まで動物の感情を研究することは、驚いた事にタブーだった。そのことを研究した霊長類学者のジェーン・グドールはチンパンジーの研究で擬人主義として非難された。当時の科学界には女性が男性よりも劣り感情に溺れやすく客観的なデータがとることができないという偏見があった。さらに動物は人間と完全に異なる劣った存在とする人間中心の考え方を持っていた。人間中心主義にとって人間と同じ様な感情が動物にあることは許しがたいことだったのである。
テディベアのぬいぐるみやクマのプーさんなどは可愛らしい。が現実のクマは一撃で人を倒す事ができ、そして人を食べることもある。実際、日本でもクマによる人身事故は後をたたない。写真家の星野道夫は「満員電車に揺られながら学校に向かう途中ヒグマが気になった。自分が生きている同じ国で、ヒグマが同時に生きていることが不思議でならなかった。」と少年の頃からヒグマに思いを寄せていた。星野道夫はカムチャツカでそのヒグマに襲われ命を落としたのである。
星野道夫の死
事故は、TBSの「どうぶつ奇想天外」というテレビ番組撮影のため、三週間の予定で赴いたカムチャツカのクロノッキー自然保護区に介在する、クリル湖畔のグラシー・ケープという所で起こった。クリル湖畔は、世界有数のヒグマ高密度地帯といわれている。この地域では、以前にも人身事故が起こっており、この一行についていたロシア人兄弟ガイドの兄の方も数回襲われかかったというが、いずれも日中であり、それは突然の出会いによるものだったという。以下「ベア・アタックス北海道大学図書刊行会」より引用
一行は、星野氏、TBS取材班三人、ロシア人兄弟ガイドニ人の六人。一九九六年七月二十五日彼らは現地入りした。そのとき、ガイドがキャビンにクマが侵入して肉の缶詰とコンデンスミルクが食われているのに気づいている。小さなキャビンに星野氏を除く五人が泊まり、星野氏はそこから十メートルほど離れた所にテントを設営したという。七月二十七日、アラスカから別の写真家がやってきた。そのとき、彼はキャビンの外壁にクマの爪跡があるのを見つけた。キャビンが満員なので、彼は星野氏のテントから四メートル離れた所に設営した。彼が寝てから六時間後、大きな金属音で目覚めた。見ると、十ニメートルほど離れた食料庫の金属板の屋根の上でクマが跳びはねていた。彼は大声をあげ手を叩いた。クマは一瞬跳ぶのを止め、彼の方をむいた。尚も大声をあげると、クマはゆっくり屋根を下り、星野氏のテントの後方に回り込むように歩いた。そのときテントから頭を出した星野氏に、「あなたのテントから三メートル後ろにクマがいるよ。」「どこに?」と星野氏。「すぐそこ、ガイドを呼ぼうか」と写真家。「うん呼んで」と星野氏。写真家は「クマがいる」と叫びながら鍵のかかったキャビンのドアを叩いた。ガイドは、クマ除けスプレーをもって出てきた。クマは三百キロ前後はありそう。額には特徴ある赤い傷があった。三人は大声をあげ、鍋を叩き鳴らしてクマを追いはらおうとした。クマは三人を無視する様子だった。ガイドはついに七~八メートルの所からスプレーを噴射した。写真家が見たところでは、スプレーはクマの手前で地面に落ちたようだ。クマは立ち止まり、地面の匂いを嗅ぐと、そのまま三入を無視し続けた。ガイドはスプレーの届く所に行こうと、三十分あまりイタチゴツコをした。クマはやっと立ち去った。クマはその後五、六度キャンプにやってきた。
こうした経緯が何度かあり、ガイドは星野氏に考えを変え、キャビンで寝るように頼んだ。しかし星野氏は、今までどおりテントで寝るほうを選んだ。一方、現地に来たその日恐怖の夜を過ごした写真家は、翌日五百メートル離れた、サケ観察タワーに居を変えた。七月二十九日、ペトロパブロフスクからローカルテレビ局の経営者がヘリでやってきた。彼が、額に赤い傷のある雄と思われるクマが、フライパンのようなものから物を食べるのを、ビデオカメラで撮影してるのを、写真家とキャンプにいたほとんどが見ているという。この巨グマは、食料をねらってヘリの窓を破ったという。八月一日の夜、ツアーで訪れた環境保護団体のグループが、同じキャンプに設営した。このとき、例のクマと思われるのが、誰かのクツをくわえ去ったという。この日、サケ観察タワーに泊まっていた写真家が小旅行に出たあと、環境保護団体の一入が、そこに泊まった。このときは、一晩中巨グマがタワーによじ登ろうとしたり、柱に体をこすりつけたりして眠れなかったそうである。八月六日夜、星野氏のテント近くを巨グマが動き回った。その都度ガイド兄弟はスプレーを使ってクマを追いやらねばならなかった。ガイドは、星野氏にキャビンで寝るよう強くすすめたが、夏でもあったし、彼は屋内で寝ることになれていなかったという。八月七日、写真家は巨グマが、タワー近くの川で、群れをなして遡るサケを獲ろうとしたり食っているのをタワーの上から見ている。
八月八日午前四時少し前、取材班の杉山氏が、「テント!ベアー!テント!」と叫ぶ声に、ガイドが目を覚ました。そのときの様子を、彼は次のように語っている。
「二秒ほどで私と弟、それに取材班全員がキャビンの外に出ると、道夫の叫び声とクマの喰り声が聞こえた。外は真っ暗で、懐中電灯でテントのあたりを照らすと、テントは壊されていた。それから十メートルほどの草むらのなかにクマの背中が見えた。すぐにわれわれは大声をあげたが、クマは頭を上げもしなかった。私はシャベルと金属の腕木を見つけて、クマから三~五メートルくらいのところでガンガン叩いた。クマは一度ちょっとだけ頭を上げたが、それから道夫の身体をくわえたまま暗闇の中に姿を消した。」クマは動かなくなった星野氏の体を引きずって四百~五百メートル先の林の中に入っていった。途中、ある場所で、クマは身体の一部を食べ始めた。白然保護区の規則で、キャンプに銃はなかった。ガイド兄弟は、ほかの日本人の安全を守ることはできたが、銃もなく、星野氏はすでに死んでいることを考え、クマを追跡しなかった。ほどなく、ガイド兄弟は無線で助けを呼ぶことができた。昼頃、特殊部隊の隊員一人、プロハンター一人、ほか数入を乗せたヘリが到着した。やがて兄のガイドを乗せたヘリは、追跡を開始、頭上七~十メートルでホバリングしながら銃撃、クマは倒れたが再び逃げた、更に追跡して銃撃、また倒れたので、ヘリは着地した。更に止めを撃った。
地球交響曲第三番
死によって 、星野道夫が出演する予定だった地球交響曲第三番は星野道夫の足跡をたどる追悼の映画となった。
星野は「まだクマに人間が殺されるような自然が残っていることにほっとする」
「真の野生は、人間を敵視するものではなく、心を開いて接すればクマは恐ろしい動物ではない、アラスカのクマはおとなしい」と生前、語っていた。アラスカを旅するなかでアメリカ先住民クマ族と出会い、イニシエーションを受けクマの神話に出て来る名前「カーツ」をあたえられ星野道夫はその神話世界に入っていった。
「木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと人間を見据えている。ぼくは、まるでひとつの生命体のような森の中で、いつか聞いた、インディアンの神話の一節を、ふと思い出していた。」「ノーザンライツ」新潮社
「われわれは、みな、大地の一部。おまえがいのちのために祈ったとき、おまえはナヌーク(シロクマ)になり、ナヌークは人間になる。いつの日か、わたしたちは、氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでもよいのだ。」
「ナヌークの贈りもの」星野道夫 小学館
映画地球交響曲第三番ではクマ族のウィリー・ジャクソンが出演し「道夫の魂、守護神はクマだった。」「何故クマがクマの命を奪うのか。答えは道夫は自らの命を捧げた。」と語るのだった。
クマに襲われる現代人の解釈
星野道夫がクマに襲われたことに対しての現代人の解釈は 「正常な野生のクマに安心して、人間になれた異常なクマに油断した。」(野生動物研究家 木村盛武)「クマの中には人を襲うものもいることを自覚し、そういうクマが襲ってくる場合のことを想定し武器を携帯すべきであった」(動物学者 門崎允昭) 「クマスプレーは役にたたないこともある。その事故は避けられたはずだ。星野道夫の死は痛ましい。野生動物には注意が必要だ。」しかし、これだけの話だけでは星野道夫の精神世界はすっぽりと抜け落ちてしまう。
「クマは人間を襲う恐ろしい動物である。共存ということは奇麗ごとで人間が生きる為には森を伐採しクマは殺さねばならない。」という現代社会と目に見えない精霊とともに生きる先住民の神話世界、この二つの世界を星野道夫は旅をしたのである。
先住民族の精霊文化
世界の先住民族には音楽や踊り、断食、薬用植物を使用して日常意識を超えた変成意識、トランス状態に入り、精霊と情報を交換するイニシエーションの文化がある。近代の合理主義が否定して来たものがここには残されている。多くの狩猟部族ではクマを動物世界のシャーマンとみなしていた。クマは雑食で人間と同じものを食べる。クマの食べ物の80パーセントは植物である。時には2本足で歩き、皮をはがれたクマは人間そっくりである。クマは冬になると姿を消し、春になると姿をあらわす。クマは死と再生、癒しの儀礼に関わっていた。
私たちの近代社会では森は伐採され獣は姿を消し、科学でとらえられない精霊は迷信として退けられ、イニシエーションは途絶えた。自然の智慧を体験する聖なる場所は破壊されてしまった。現代人は魂が帰る場所を失ったように思える。 故郷を見失い不安の中でいたずらにさまようばかりである。
アメリカ先住民には自然界の英知を学ぶシャーマンのイニシエーションがあった。手つかずの自然の中に入り力に満ちた聖なる場所で冬眠にはいるクマのように長期間断食して死と再生の体験をするのである。トランス状態の中でクマは精霊として現れ智慧と癒しの力を授けシャーマンの守護霊となる。アメリカ先住民の間ではクマは最も強い守護霊の一人だ。ラコタ族のブラックエルクは自分の癒しの力はクマから授かったものだと語っていた。ラコタ族の偉大なる精霊ワカンタンカは熊の姿に化身して姿を現すといわれ、クマの夢を見たものは偉大なメディスンマン(呪医)になるという。
クマ狩りの儀礼
アイヌ民族にはクマ狩りの儀礼で有名なイオマンテがある。春先に冬ごもりの穴から連れ帰った仔熊を、1?2年飼育した後に盛大な儀礼とともに殺害し、その霊を神の国に送り返すというものである。
「もしわしらが大きな木を切るっていうことになれば、木の神様にお祈りをするんだ。それを切るとはいわないよ、休ませるっていうんだ。あなたはもうこのままでは風で倒れてしまうかもしれない老木になってしまう。だからまだ元気ないまのうちに人間の役に立ってくださいと。そうすれば我々も長く永遠にあなたをお祭りしますからお願いします、と。こういうわけだな。人間の役に立ってこそ神様ではないですかと。熊だってそうだよ。獲ったとか撃ったとか殺したとはいわないもんだ。遊びにくるっていうんだな。火の神様のとこさ遊びにきたっていうんだって。あんたの御先祖のとこへご馳走たくさん持って帰って、またありがたい下界に下ってきて、またあんたの遊んどった場所でゆっくり踊りを踊ったり飛んだり跳ねたりして遊びなさい、ていうことさ。」(萱野辰二郎エカシ)
獲物を届けてくれたカムイに対して恩義を感じ、それ以上のものを返礼贈与として送り返す儀礼は現代の我々の習慣にも残っている。今はかなり姿を消したが昔、田舎の法事に行って蒲鉾やお菓子、味噌、醤油、砂糖、肌がけ布団まであり重くガサばるものばかり両手でもちきれないほどの引き出物の返礼が来た事がある。今はカタログ一冊を持たされるだけになった。
アイヌをはじめ世界中の先住民の神話にはクマが若者の姿をして人間の女性と結婚をして出来た子供が祖先だという共通の話がある。祖先がクマなのでクマを家族、親戚としてあつかう。 先祖がクマなのでクマの肉を食べない部族もある。朝鮮半島には熊女と神の間にできた子どもが開いた王朝が古代朝鮮の始まりとする神話、伝承がある。
北アメリカ先住民のクリー族によると殺されるクマは進んで命を狩人に与えると言う。冬眠している巣穴の前に立って、「おじいさん、頭をだしてください。」と狩人の呼びかけにクマは喜んで食べてもらえるよう肉体を差し出すと言う。クマを殺した狩人はクマに敬意を払い羽で美しく着飾って歌を歌い太鼓を叩き、クマに贈り物をして感謝の儀礼を執り行う。そうしてこの世にクマが再び戻る事を願うのである。クマの頭蓋骨は洗って特別な木に吊るされる。
クマ狩りの儀礼はアメリカ先住民だけではなくカナダのイヌイット、シベリアや中央アジア全域、アイヌ、北欧のラップランドのシャーマンに共通して見られるという。その起源は約6万年前に遡りスイスの洞窟ではクマの頭蓋骨を崇拝したと思われる礼拝所が発見されている。
ヨーロッパのクマ神話
クレタ島には聖母マリアの祭りがあるが、キリスト教以前は異教徒の祭りだった。クマの姿をした神と大地の女神が結婚する儀礼だったのである。今世紀初頭までフランス南部のピレネー山脈の麓の町では毛皮をまとってクマに扮した若者が春に再生する植物の精霊役の女性を見つけ出し、巣穴に連れて帰る神婚儀礼がおこなわれていた。
ギリシャ神話のゼウスは熊の乳で育てられたという。ヨーロッパの遺跡からは子グマを腕に抱きかかえた母クマ像が発見されているがのちにアルテミスとして知られるようになった。子グマはゼウスである。ゼウスとカリスト(大熊座)の間に出来た子どものアルカス(子熊座)はクマの民と呼ばれるアルカディア人の先祖だと考えられている。そしてギリシャ、ペロポネソス半島のアルカディアの民が崇拝したのはアルテミスである。この地にもアラスカ、カナダ、北米全土で最も好まれる先住民の共通の神話「クマと結婚した娘」があった。アルクトゥルスはクマを意味するギリシャ語、ラテン語ではウルス、そしてクマの女神ウルスラはキリスト教に取り込まれ聖ウルスラとなる。
「クマよ 」星野道夫 福音館書店
5000年以上前の古代ギリシャ、オリエント地方は豊かな森林で覆われ、たくさんのクマが草をかきわけながら歩いていた。レバノンの国旗とコインには有名なレバノン杉がデザインされているが、いまは見渡すかぎりの禿げ山に変わっている。古代から森を切り開き、最後にキリスト教徒とイスラム教徒がとどめを刺した。クマはおろか無数の生き物の命は奪われた。今は家畜と人間しかいない荒涼とした風景が広がっている。
なめとこ山の熊
宮沢賢治は童話「なめとこ山の熊」で熊と人間のかかわり合いを述べている
小十郎は、熊狩の名人で熊がたくさんいるなめとこ山に熊を捕りにいく。なめとこ山にはいてその肝はたいへん高額である。小十郎が山へやってくると、熊たちは面白そうに小十郎を見ている。なめとこ山の熊は、小十郎が好きなのだ。しかし、いくら熊だって、小十郎が目を光らして鉄砲をこちらへ構えることは、好きでない。ときには烈しい気性の熊が、小十郎のほうへ両手を出してかかってくる。しかし、小十郎は落ち着いて、熊の月の輪をめがけてドスンとやる。小十郎は、熊に「おれは、てめえを憎くて殺したのではねえんだぞ。これも商売だから、てめえも撃たなくちゃならねえ。てめえも、熊に生まれたが因果なら、おれもこの商売が因果だ。やい、この次は熊なんぞに生まれるな」といって、本当は熊を撃ちたくないのだが生活の為にしかたなく熊を殺すのだった。
このなめとこ山では豪傑である小十郎も町へくると、みじめである。山では米はすこしもとれない。家族七人を養うために熊を米に替えねばならない。こういう小十郎の弱みにつけこんで荒物屋の旦那はさんざん値切る。熊の毛皮二枚で二円である。熊の毛皮二枚で二円は、あんまり安いと小十郎は思うが仕方がない。この荒物屋の旦那以外にどうして熊の皮が売れないか、その理由はわからない。
賢治はハートを失った荒物屋の旦那を嘆いて「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と述べている。
ある夏のことであった。小十郎がひとつの岩に登ったら、その前の木に大きな熊がよじ登っているのを見た。その熊を殺そうとすると、熊は両手を挙げて叫んだ。「おまえは、何がほしくておれを殺すんだ」それにたいして小十郎は、「ああ、おれはおまえの毛皮と肝のほかには、何もいらない。それを町に持っていってひどく高く売れるというではないし、ほんとうに気の毒だけど、仕方がない。けれども、いまごろおまえにそんなことをいわれると、おれでもなにか栗かしだのみでも食っていて、それで死ぬなら、おれも死んでもいいような気がするよ」と答える。その言葉に「もう二年ばかり待ってくれ。おれも少し、やり残した仕事があるし、二年たったら、おまえの家の前で死んでやる」といった。小十郎は変な気がして、じっと考えて立っていた。熊は、その場から悠々と立ち去った。それからちょうど二年目、風の激しい日に小十郎は外へ出てみると、あの熊がやってきて、口からいっぱい血を吐いて倒れていたのである。
その年の冬の日のことであった。小十郎は、いままでにいったことのない言葉を、ばあさんに残して、山へいった。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来た。小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を撃った。熊は少しも倒れない。小十郎はガアンと頭が鳴って、周り一面が真っ青になった。それから遠くで、「おお小十郎、おまえを殺すつもりはなかった」という言葉を聞いた。小十郎は死んだのである。
それから三日目の晩
その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環(わ)になって集って各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸(しがい)が半分座ったようになって置かれていた。
思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴(さ)え冴(ざ)えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
宮沢賢治のこの童話の最後のシーンは人間が熊の霊を送るのではなくて逆に熊が人間を神の世界に贈る儀礼をしているのである。小十郎の顔は笑っているように見える。小十郎は喜んで自らを犠牲に捧げたのである。熊たちは小十郎の霊に敬意を払いじっと雪にひれふして祈るのだった。
「星野道夫の仕事」朝日新聞社
わしらはやがて大地に戻る
星野道夫が亡くなったあと北米クリンギット族のメディスンマンはクマの姿をしてベアダンスを踊って星野の霊を弔った。
「人間は生まれて来る時に苦しくて大泣きするが、まわりの人たちは新しい命を大喜びで迎える。正しい死に方はその逆で、本人は満ち足りた心で死ぬがまわりの人はその人を惜しんで大泣きする。」
「わしらはやがて大地に戻る。そこに何を持っていく必要があるのかね。この世界で生きて来た喜びと、次の時代を生きる子どもたちに、わしらが母なる大地から教えられた美しさと感動を残してあげられればそれで十分だ。」アメリカ先住民長老
2006年05月15日
参考文献
地球交響曲第三番 [DVD] Jin Tatsumura Office
「ゾウがすすり泣くとき」河出書房新社
「クマとアメリカインディアンの暮らし」どうぶつ社
「日本の深層」梅原猛 集英社
「アイヌの本」宝島社-
「ヒグマそこが知りたい」木村盛武 共同文化社
「イーグルに訊け」天外 伺朗 飛鳥新社-
「なめとこ山の熊」宮沢 賢治 偕成社
「星野道夫と見た風景」星野道夫・星野直子
星野道夫の神話
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