1、雲門宗大覚禅寺


 今から数年前に広東省を旅したときに、たまたま雲門行きのバスを見つけ、なぜか気になりバスに乗った事がある。韶関駅から、約1時間ほどバスにゆられ10元払って停留所を降りると黄土色をした寺院があり山門には大覚禅寺とあった。そこは唐末から五代(864−949)にかけて活躍された雲門宗の開祖、雲門文偃(うんもんぶんえん) 禅師が開かれた禅寺だった。

 大覚禅寺がこの場所にあることは知らなかったし、全く予定になかった雲門山大覚禅寺の参拝になにやら禅仏教との縁を感じないわけにはいかなかった。

 雲門禅師が語った有名な禅語に碧巌録(へきがんろく)の第六則に出て来る日々是好日(にちにちこれこうにち)がある。

「雲門垂語して云く、十五日已(い)前は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)い将(も)ち来たれ、 自ら代わって云く 日々是好日 」

 良い悪いの二元性を超えた境地から語られた禅語なので、我々凡人にはいつも良い日とは簡単に言えない。二元性を越えた境地の雲門禅師にとって良い悪いは等しく失敗した時や辛く苦しい時も良い日なのだろう。

 雲門山大覚禅寺には観光客がおとずれる気配もなく落ち着いた静けさがあった。竹林をすぎて、大雄宝殿の裏手に廻ると雲門寺の方丈が仏舎利に向かって礼拝していた。その立ち振る舞いに無駄がなく、その姿は美しかった。舎利塔には虚雲和尚と書いた文字の石彫りがあり百年に渡るその業績が刻まれていた。その奥には虚雲和尚記念堂が建立されていた。

 雲門山の舎利塔は近代中国における禅の最高峰といわれる虚雲和尚を顕彰したものだった。虚雲和尚のことは全く耳にした事はなく、ほとんど日本では知られていなかったようだ。

2、出家


 虚雲和尚は中国福建省の永春州で生まれた。父親は省の役人で40歳過ぎても子供が授からなかったので母は観音寺に参拝し熱心に祈ったところ、ある夜両親は同じ夢を見る。長い髭を生やし青い着物を着て、頭上に観音菩薩を戴き、虎に跨がった男が寝台に飛び乗る夢だった。二人は驚いて目を覚ました。その後に母は身ごもった。

 アヘン戦争が勃発した1840年、7月26日の午前4時ごろ、母親は役所の官舎で袋に包まれた肉の固まりを出産した。初産だつた母は非常に驚き、もはや子供を望むことはできないと絶望しながら息絶えた。翌日,通りがかった薬売りの老人が袋を切り裂き、男の子を取り上げた。この子が虚雲和尚である。虚雲和尚は義理の母に育てられることになった.

 幼少時から仏教への因縁を感じ、密かに出家を考えていた虚雲和尚の様子に父親は気づき、跡取りが出家されては困るので道教の在家の修行法を学ばせた。三年間叔父のもとで道教を学ぶが気持ちは仏教にあり、十七歳の時に荷物をまとめて仏教寺院に向かうが見つかり連れ戻される。

 父親は強引に二人の娘との婚礼を催した。虚雲和尚は監禁状態に置かれ二人の妻と同居しなければならなかった。虚雲和尚は二人の妻と従兄弟とよく話をして、仏教に関心を持たせた。

 19才のとき虚雲和尚はついに従兄弟とともに福建省福州にある鼓山の湧泉寺で出家を遂げた。父親は人を各地に派遣して探させたが虚雲和尚は山中の洞窟に隠れて修行し、人に会おうとはしなかった。25才の冬、父親は病で亡くなり虚雲和尚は鼓山で寺の仕事を続けた。

 27歳時、修行の必要を感じた虚雲和尚は持ち物を仲間の僧に分け、一枚の衣、一本のズボン、一足の靴、一枚の蓑、一枚の座布団だけを持って、山中の洞窟の修行生活に入った。

 洞窟に住み、松葉や青草を食べ、渓流の水を飲む洞窟生活が続くにつれてズボンや靴は擦り切れてぼろぼろになり、体を覆うのは一枚の衣だけになった。人と話をすることはなかったが、山中で会っても髪を頭上で束ね、髭は足まで伸び、目は欄々と輝いた虚雲和尚を見た村人は皆、怖がって逃げ出した。

 身体は日増しに強くなり、耳目は聡明となり、飛ぶがごとくに歩いた。天地を家とした。万物は我に備わり、心は充足し、自分は苦も楽も捨てた天人であると思った。
31歳の時に山中に訪れた禅僧の進めにより虚雲和尚は天台山の老師のもとへ参じた。

虚雲和尚
「教えを乞いに来ました。どうか慈悲をもってお教えください」

 融鏡老師は80歳近く、戒律を厳しく守り、教学と禅の両方に通じていた。
「あなたは仏教僧なのか、道教の道士なのか、それとも俗人なのか。戒律は受けたのか。何年そのように修行しているのか。誰がそのように修行することを教えたのか」

「御見受けするところ、外道のように正しい仏教をまったく歩まずに修行したようだが、洞窟に住み、谷の水を飲んで一万年を生きたとしても、『楞嚴経』に説かれた十種仙の一つに過ぎず、仏道は遠い。」

「さらに言うと、わずかばかりの心の充足を得ても※注1阿羅漢になる以前の初果に過ぎない。悟りを求めて衆生を救い、自らを救って人を救い、世間を出て世問を離れないのが、菩薩の発心というものだ。無理に穀物を絶ちズボンをはかないのは、奇異をてらっているに過ぎず、修行が成就するとは思えない」

 虚雲和尚は老師より「この死骸を引きずっているのは誰か」という公案を与えられ髪を剃り沐浴した。

 天台山を離れた後、虚雲和尚は10年以上に渡って、求法行脚の旅を送るが修行を成就する事は出来なかった。


※注1阿羅漢になる以前の初果

仏教の論書では悟りの段階を四つに分ける。

1、初果、
 仏道の修行を始めたとき最初に得られる成果。サンスクリット語では「聖者の流れに入る」という意味の「ソータパッティ」という。漢訳では「預流果(よるか)」「須陀恒(しゅだおん)」ともいう。心や身体が自分のものという思い込み、仏教修行への疑い 世間の風俗、習慣や儀礼へのこだわりから解放された段階、聖者の流れに入ると苦悩から離れ、人間界で7回の転生輪廻を経たあと解脱に至るのだという。

2.二果
 もう一度だけ人間界に生まれ落ちて、残っている迷い、嫌悪、怒り、などのさまざまな感情を体験し尽くすことによって洞察智を得て悟りに入る段階。「一来果(いちらいか)」「斯陀含(しだごん)」ともいう。

3.三果 
 感覚的快楽、欲望から解放されると人間界に生まれ変わることがなくなる。しかし、まだある微細な欲望や執着、高慢やうぬぼれ、プライドや浮つきを滅却する為に物質世界を超えた天界に何度も生まれ変わらなくてはならない。  そのときには肉体ではない微細身を持つ。「不還果(ふげんか)」または「阿那含(あなごん)」ともいう。

4、阿羅漢果(あらかんか)
 一切の煩悩から解き放たれて完全に目覚めた状態、涅槃にはいったので二度と輪廻転生することのない窮極の悟りの状態。
 
しかし、大乗仏教では阿羅漢を自分だけを救おうとする劣った段階として、いつのまにか、その上に菩薩をおいた。このあたりは最高の段階のはずだった阿羅漢を小乗仏教の修行の段階として菩薩をその高みにおくのは大乗仏教徒の巧みなロジックである。

3、菩薩の加護



 出家してから各地を遍歴し二十余年が過ぎたが、未だ虚雲和尚は道を求めて放浪の生活を送っていた。母は亡くなり一人息子が出家したために、父は悲しみ、その為に仕事を止めて寿命も縮めてしまった。父母の恩は限りがなく両親のことを思うと心は休まらなかった。そこで菩薩の加護で父と母が苦を脱して早く浄土に生まれ変わるように、※注2 五台山へ巡礼することを発願した。五体投地をしての巡礼の旅は三年に及んだ。

 巡礼の途中、無人の茅葺きの小屋に入り坐禅をしていると、雪が降り続いて、しだいに冷え込んできた。翌朝は雪が深く降り積もり道は完全に閉ざされ進むことができなかった。茅葺き小屋は囲いが無く、部屋の隅に体を寄せ枯木のごとく坐って呼吸だけに意識を集中した。三日間、雪はやむ事なく降り続いた。猛烈な寒さと空腹が続き、意識がしだいに朦朧としてきた。六日目の午後になってようやく雪は止んだ。日の光が差してきたが、虚雲和尚は起き上がれなくなっていた。

 七日目に乞食が来て、雪の中に横たわっていた虚雲和尚を見つけた。乞食は雪をかき分けて枯草を集め、それに火を付けて黄米の粥を作って食べさせてくれた。体が温まり、ようやく生気を取り戻した。乞食は文吉という名前で五台山から長安へ帰る途中だった。五台山の者は皆彼のことを知っているという。乞食の文さんはここから五台山への道筋と圭峰山の秘魔巖に清一という名の非常に優れた僧がいるということも教えてくれた。

 乞食の文さんは雪を使って黄米の粥を作りながら釜の中の雪を指さして問うた。
「普陀山にこういうものはあるか」
虚雲和尚
「無い」
乞食の文さん
「何を飲むか」
虚雲和尚
「水を飲む」
釜の中の雪が溶けると、今度は釜の中を指して問うた。
乞食の文さん
「この水とは何か」
虚雲和尚は答えられなかった。

虚雲和尚は礼をして乞食の文さんと別れ彼の足跡を逆に辿って五台山に向かった。

 巡礼を続けた虚雲和尚はお腹を壊し1月13日に黄沙嶺という山頂で10日間続いた激しい腹痛と下痢でついに起き上がることができなくなった。誰も通りかからない山頂のことで虚雲和尚は死を覚悟した。その時またもや乞食の文さんが現れ看護してくれた。乞食の文さんは長安から五台山に帰るところだった。乞食の文さんは虚雲和尚の荷物を運び食事を作って同行してくれた。旅の途中、難相寺という寺に宿泊を乞うと住職は俗人なのでと乞食の文さんだけを断った。

 乞食の文さんは言った。「五台山まではそれほど遠くはない。私は先に行く。虚雲和尚はゆっくり進めばよい。荷物は、必ず誰かが山まで送ってくれるだろう」彼はそう言うと別れを告げて寺を出ていった。虚雲和尚は後を追って探したが見つからなかった。

 数ヶ月後、無事に五台山に着いて乞食の文さんのことを尋ねたが、誰も知る者がなかった。
一人の老僧に彼のことを話すと、その老僧は「文殊菩薩の化身だったのかもしれません」と言って合掌した。

 乞食の文さんと同様な話は西洋にもある。キリスト教世界では神と人の間に天使が存在する。
「主はあなたのために御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」(詩編91-11)

 天使はしばしば人間界に現れてメッセージを伝えたり守ったりする存在だ。旧約聖書には荒野で預言者エリアを天使が守護する場面が出てくる。

『彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。』(列王記 上19-4〜8)

  13世紀イタリア、ソフィアーノの修道院で重い病気にかかっている瀕死の状態のフランシスコ会の修道士に霊薬の入った壷を持つ3人の乙女とともに聖母マリアが現れた。聖母が壷から霊薬をとって病人が口にするとたちまち強い力と心地よさが広がった。(聖フランシスコの小さな花)

 乞食の文さんは虚雲和尚の命を2回も救い「何のために五台山に参拝するのか」と問いかけ「父母の恩に報いるために、百難に出会おうとも進むつもりだ。そうでなければ死んだ方がましだと思っている」と虚雲和尚が答えると行李を背負って食事を作ってくれた。五台山の者は皆乞食の文さんことを知っているというが、誰一人知らなかった。乞食の文さんは天使のような存在だったのだろうか。

 天使は人間が祈りや瞑想で助けを求めた時、適切な助言を与え助けの手を差し伸べるために存在しているという。人生の最大のターニングポイント、あるいは千載一遇のチャンスをものにするために手助けをするのである。天使はただし人間の自由意志を尊重し干渉はしないという。天使もまた人間のように多くのことを学ぶことがあり天界で自分自身の魂の進化をしているとされている。

 正統派のキリスト教は洗礼を受けなければ守護天使がつかないと説明する。しかし虚雲和尚はキリスト教徒の洗礼は受けてはいないが乞食の文さんが守護してくれた。現世利益的な信仰が強い菩薩は天使と同じような働きをする。

 シュタイナーによると天使は人間が進化したもので神のそばにいる至高の神的存在である。あらゆる階層の神的存在が組み合わさって複雑で完全な宇宙の構造を作り上げ、それが宇宙の安定と力を与えている。人間は進化しつづけ、物質的な障害、囚われを取り除いていき神に戻ることを目的としている。 仏陀の手足となって活動する菩薩の概念はまさに天使的である。

※注2 五台山
 五台山は中国、四大仏教聖地に数えられていて現在の山西省にある。唐後期の頃から五台山は生身の文殊菩薩が住む霊山との信仰が生まれ華厳宗が栄えていた。その後、清の順治帝時代以降、チベット仏教が信仰され五台山に在るいくつかの寺はチベット仏教の寺院に変えられている。他の三つの霊山は浙江省にある観音菩薩の普陀山、普賢菩薩は四川省の峨嵋山、安徽省にある地蔵王菩薩の九華山である。


4、自己の本性を知る



 チベット、ブータン、インド仏蹟、スリランカ、ビルマ、中国各地を巡礼をして虚雲和尚は五十六歳になっていた。
 日清戦争が起きた1894年、揚州の高旻寺で四週間の法要と十二週間の摂心に参加するために九華山を下り揚州に向かった。途中、長江を渡ろうと足を滑らせ、転落して一昼夜漂流する。運良く漁師の網に掛かかり近くの宝積寺に運び込まれた。口や鼻、大小便の穴から出血していたが息を吹き返し危ういところ奇跡的に助った。宝積寺で数日休養して高旻寺におもむいた。

 高旻寺の僧侶は虚雲和尚がやせ細っているのを見て法要と摂心に参加できるのか尋ねたが虚雲和尚は「病気ではない」と答え、川に落ちて死にそうになったことは話さなかった。

 高旻寺の住職から寺の仕事を手伝うように頼まれたが虚雲和尚はそれを断り、坐禅に集中させてくれるように頼んだ。

 高旻寺の家風は厳格であり、寺の仕事を頼まれて拒んだ者は怠け者と見なされた。虚雲和尚は弁解せずに警策で叩かれた。病はますます悪化し、出血が止まず、小便がほとんど出なくなった。虚雲和尚は死を覚悟して禅堂で昼夜坐禅に打ち込んだ。しだいに心は澄み、自分の体というものを意識しなくなった。二十日ほど経つと病はほとんど癒えていた。

 虚雲和尚が溺れて運び込まれた宝積寺の住職が、衣などを僧衆に供養するために高旻寺を訪れた。住職は虚雲和尚の顔色がよいのを見て非常に喜び、虚雲和尚が長江に落ちて死にかかったことを話したので皆は感嘆の声をあげた。虚雲和尚は仕事を免除され、禅堂で昼夜を徹して坐禅に打ち込むことができた。体の動きが飛ぶように軽く、妄想は退きすべての思考は止んだ。

 ある夜、坐禅の後に目の前が真昼のように明るくなり、突然、禅堂の内外を見通すことが出来るようになった。壁の向こうで香燈師が小便をしていた。西単師は、厠にいた。遠くの河を船が進んでいた。両岸の木々は様々な色をしていた。すべてが見通せた。翌日、両師に確かめてみると、すべて、虚雲和尚の見たとおりであった。

 十二月、坐禅が終わって、いつものように禅堂内で茶が給仕され、係の僧が茶を注いで回った。虚雲和尚の手に湯がかかり茶碗が落ち、砕ける音がした。その時、たちまち虚雲和尚の疑いの根は断ち切られた。虚雲和尚は大悟した。ついに夢から醒めたのである。

 出家して漂泊すること三十数年。五台山への巡礼中、黄河のほとりで乞食の文さんに救われた。粥を作りながら文さんは問うた。
「水とは何か」虚雲和尚はこの問いに答えることができなかった。

 虚雲和尚は語った。
「今ならば、鍋と炉を蹴飛ばすだろう。
乞食の文さんは何と答えるだろうか。
今回、もし河に落ちず、大病にもならず、苦難にも遇わなかったならば、
求法行脚をして、すぐれた師に指導されても、自分自身は一生をむだに過ごすことになっただろう。」

「茶碗が落ち、
音が響き渡る。
虚空は砕け散り
狂心は止む

湯が手にかかり、杯は砕けた。
人は亡く家は破れ
これらのこと語り難し
春が訪れ花は香る
すべては美しく
山河大地
すなわち如来なり」


 虚雲和尚の手から茶碗は落ち床に砕け散った。
虚雲和尚のマインドも落ち、茶碗と同様に妄想も砕け散った。

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参考文献
「虚雲和尚伝」 慧光・大島龍玄訳 葦書房
存在の分析「アビダルマ」角川文庫ソフィア
「人類の知的遺産〈14〉ヴァスバンドゥ」三枝 充悳 講談社
「悟りの階梯テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造」藤本 晃 サンガ
「聖フランチェスコの小さな花」教文館
「天使と人間」シュタイナー イザラ書房
「天使がわたしに触れるとき」ダン リントホルム イザラ書房


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