第2章 愛の心のないものに
華厳宗中興の祖と呼ばれる明恵上人だが華厳経は2世紀頃からインドで編纂され中央アジア、 タクラマカン砂漠のオアシスの地ホータンを経由して297年から774年までの間に漢訳されと いわれている。
隋の頃(581年 - 619年)華厳経を昼夜唱えたら宦官(去勢された役人)の男性ホルモンの分泌が 盛んになり髭が濃くなったと評判になり国を挙げて信仰したとされる。当時は神通力や不思議な 奇蹟を求めたのである。いや昔だけではなく、奇蹟を求める人は現代でも少なくない。
華厳宗を大成させたのはサマルカンド出身の第3祖法蔵(643〜712)といわれている。その法蔵 の兄弟子に朝鮮の新羅から長安に留学していた義湘(ウイサン・ぎじょう)という僧がいた。
栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)には明恵上人が絵師に命じて作らせた華厳宗祖師絵伝 というのが残っている。華厳宗の祖師といえば1〜3祖までを描くべきなのに法蔵の絵は全く無 く、明恵上人は古代朝鮮半島、新羅の 高僧義湘と元暁(ウオンヒョ・げんぎょう)の行状 だけを描かせている。宋高僧伝には日本人の僧侶は誰一人載っていないが新羅の 義湘と元暁だけは載っているほど二人は天下にその名を知られた名僧なのだ。義湘と元暁は著作も多く韓国を代表する高僧である。明恵上人は新羅の義湘と元暁 を大変尊敬していたのである。
義湘(ウイサン)と元暁(ウォンヒョ)は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとした。たまたま旅の途中で雨に会い、そこに あった洞穴で野宿をした。真っ暗な中で元暁は喉が渇いたので入れ物で水を飲んだ。翌朝目をさ ましてみるとその入れ物は頭蓋骨だった。元暁はどくろだと思ったとたんに吐き気を催したとい う。どくろだと思わなければ吐き気はせず、思ったとたん吐き気がする。つまり、すべてのもの は自分のこころが作ってゆく、自分の心のほかに師を訪ねてみても意味がないと悟る。結局、元暁(ウォンヒョ)は新羅に留まり義 湘一人だけが唐に渡った。
新羅に戻った元暁(ウォンヒョ)は妻帯して子供をもうけ酒を飲む破戒僧となって民衆の中に入ってゆき仏教を広めていった。元暁(ウォンヒョ)の著作は膨大にあり超人的な著述とその内容の深さから中国では菩薩が書いたものであろうと賞賛された。元暁(ウォンヒョ)の著作の一部はサンスクリット語に翻訳され仏教の本場インドまで伝わった。
一方唐に渡った義湘は長安で仏教の善妙(ソンミョ)という美しい娘にほれられてしまう。義湘が仏に使える身なのでと交際を断ると 善妙は尼さんになり一緒に仏教を学ぼうとした。師匠も亡くなり帰国の命が出たので義湘は善妙に告げずに舟で新羅に帰国した。義湘の帰国を知って岩壁にいそいで駆けつけた善妙はすでに去ってしまった事を知り海に身をなげた。善妙は龍神と化して航海中の義湘を守護するのだった。
平安時代末期は戦乱が相次ぎ戦で死に別れた未亡人の為に明恵上人は尼寺を建立して善妙寺と名 づけた。善妙寺には明恵上人が亡くなった時、慕った尼が血書で華厳経をしたため清滝川に身を 投げた話が伝わっている。
仏教では恋愛感情は渇愛といって煩悩であり苦しみの原因をまねくものとされているが明恵上人は恋心を抱いた善妙を高く評価している。明恵上人によると愛には親愛と法愛があるという。
凡夫の愛は親愛が多く法愛は少ない。華厳経の悟りの境地、三賢十地の段階は親愛は少なく法愛 が多くなる。十地の段階はただ法愛のみだという。善妙の愛は始め義湘の見た目の肉体を愛したがそこから菩提心の愛に昇華したというのだ。
親愛は見返りを求め憎しみを伴う。結果を求める心(マインド)の愛、に相当し法愛は見返りや 結果を求めず、ただその人の存在から慈悲と愛が溢れ出し静けさや安らぎが伝わって行く精神(スピリット)の愛に相当すると思う。
「愛の心のないものに仏法はわからない。」このように語る明恵上人は親愛を単に否定するのではなくて親愛を昇華して法愛に変容する深い慈悲心の大切さを説いたのだと思う。
韓国の栄州には韓国で一番古い木造建築物がある浮石寺(プソクサ)がある。そこに善妙を奉った善妙堂がある。善妙堂には日本の栂尾高山寺が寄贈した善妙の像が飾ってあるという。
唐から帰国した義湘(ウイサン)が華厳教を広めるために浮石寺(プソクサ)を建てようとしたときに華厳教に反対する人々の妨害にあった。そのとき巨大な竜が石に化けて、反対する人々の頭上に現れ威嚇した。驚いた人々は妨害を止め、無事に寺は建立された。石が浮かんで出来た寺のエピソードから浮石寺(プソクサ)という名前が付けられた。龍神となった善妙(ソンミョ)は航海中だけでなく帰国した後も義湘(ウイサン)を守護したのである。
第3章 紀州の白上の峰
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