明恵上人 

第1章 あるべきようは

第1章 あるべきようは

 鎌倉時代の初期に何回かインドへ行こうとして計画をたてながら、その計画がことごとく頓挫した人がいる。栂尾(とがのお)高山寺の名僧として知られた明恵上人である。 彼は僧位、僧官を受けず、一宗一派にこだわらず自己の修行をされた高潔な人でもあった。

明恵上人に憧れ、いつか明恵上人のゆかりの地を訪ねたいと胸に秘めてから幾星霜、30年来の念願かないようやく訪れる事が出来た。

 明恵上人の生まれ故郷は「有田みかん」で有名な今の和歌山県の有田市近郊だ。生誕地の明恵上人ゆかりの屋敷跡には歴史を感じさせてくれる石の塔婆が置かれていて、そばには悠然と大木が立っている。明恵上人の史跡はこの石の卒塔婆があるだけで有田には特別な建造物は何もない。
屋敷跡の樹下に居ると木の葉の腕に抱かれているようでここちよい。立派な伽藍は何一つないが明恵上人のゆかりの地はすがすがしい気で満ちている。現代でも忘れ去れる事なく敬愛された明恵上人のヴァイブレーションがそこには色濃くのこっている。

 明恵上人が生まれた頃は平氏と源氏が戦いをしていた頃で父親の平重国は源氏との戦であっけなく討ち死にした。母も同じ年に他界している。明恵上人が八歳の時である。

 父は平氏だったが母方は紀州の源氏の豪族だったので、平氏が滅びたあとも地頭としてこの地を治め、明恵上人は親戚の湯浅氏を頼ってたびたび紀州に滞在した。

 四歳のころ明恵上人の父は戯れに鳥帽子を着せて見ると、姿が美麗なので侍に似合っているといった。僧になる決心をしていた幼い明恵上人はそれを聞いて顔立ちが良くて僧になれないならと焼け火箸を顔に当てようとした。ところが恐ろしくなり試しに腕を焼いた所あまりの熱さに鳴き叫んだという。

 九歳の時、叔父の上覚を頼って文覚の弟子になるのだが、文覚は明恵上人を見るなり「ただ人にあらず」と語ったとされている。この文覚という僧は京都の御所を警備する武士だったのだが友人の奥さんに手を出し、誤って殺してしまった罪を悔いて出家したのである。文覚は気が短く乱暴を働いた為に伊豆に流されてしまう。その伊豆で文覚にそそのかされて挙兵した源頼朝に明恵上人の父は打ちとれられてしまうのである。明恵上人は父を殺される因になる文覚の弟子になったのである。なんという深い因縁だろうか。しかも文覚と明恵上人の父の先祖はどちらも藤原秀郷の子孫なのである。気がつけばこのようにおそらく私たちにも網の目のような縁生がめぐらされているのだろう。
明恵上人は十三才の時に「もうこんなに年老いてしまった。今まで生きて来れたことが不思議だ。」とこんな事を考えた。明恵上人の両親は自我が芽生える8歳の頃に無くなっている。親の死が明恵少年の自立を早めたのかもしれない。

光陰矢のごとしという。常に変化してゆく物質の娑婆世界に住んでいる我々の人生はあっという間に終わってしまうだろう。死を目の前にして始めて人はして来なかった人生をやろうとするという。肉体が滅んで死に行く意識の中でそれをしようとしても、その時ではすでに遅いかもしれない。

早熟な明恵少年は体があるから煩い・苦しみがあるのだと考え、狼か山犬に食われて死のうと思い、ただ一人死骸捨て場へ行って死骸の間に横たわった。
夜になって沢山の山犬たちが来た。山犬たちは音をたてて死骸を食べるが、明恵上人の体は臭いを嗅ぎまわるばかりで食いついてくれない。そのうちにいつの間にか山犬達は立ち去ってしまった。助かった明恵上人はのちに「恐ろしさは限りなし」とその体験を述べている。

突然の親の死は子供に罪悪感を引き起こすといわれている。唐突にきずなを絶たれた明恵上人は両親の失った溝を埋めようと最善をつくしたのだ。

また、紀州に向かう途中、癩病人を見て通り過ぎるが、後で癩病には人肉が病に利くと聞き、ひそかに刃物を研いで自分の人肉を与えようと立ち寄ってみると癩病人はすでに死んでいたという。これらの出来事によって「死ぬべき業(カルマ)がない者はどんなことをしても死ねない。」ことが明恵上人にはわかったという。

十六歳で明恵上人は東大寺で具足戒(正式な僧侶の戒)を受けた。736年に華厳経が日本に伝来して以来東大寺には華厳経の根本道場があった。この頃の明恵青年は片っ端からお経を暗記して自室に戻り書き写したというから相当な頭脳の持ち主である。

 日本には名僧がキラ星のごとく存在するが明恵上人ほど興味深い僧はいない。明恵上人は僧位、僧官を受けず、一宗一派にこだわらず自己の修行をされた高潔な僧であった。

「明恵 夢を生きる」を著作した河合隼雄は湯川秀樹と梅原猛より明恵上人の研究をするよう強く進められ伝記を読んだ所、尊敬の念が高まるばかりだったと語っている。又夢記を読み感激した河合隼雄は「自分の師と仰ぐ人を見出すことができた。」と最大級の賛辞を明恵上人に送っている。

 紀野一義は好きなお坊様はと問われて「明恵上人と道元禅師」と答えている。評価が高いわりには宗派を創立した鎌倉新仏教の祖師等にくらべると明恵上人は今ひとつ知名度が低い。

 明恵上人の評伝は非常に少ない。白州正子の昭和49年の「明恵上人」と河合隼雄著作集9の「仏教と夢」紀野一義の「明恵上人」の3冊が昔から手元にあったがどれも宗教体験についての記述には物足りなさを感じていた。その中で法然を「死の座標軸」とらえ明恵を「生の座標軸」と捕らえて対比させた 98年に出版の町田宗鳳著「法然対明恵」はいままでと違って切り口が斬新だった。

 明恵上人は密教と華厳を修め厳密の祖とも華厳宗中興の祖と呼ばれているが真言密教に対しては興味がなかったようだ。たぶん少しサンスクリット語を勉強しただけで中味がなくとも真言師とされる風潮に嫌気がさしたのだと思う。平安時代から続いて来た最澄と空海が開いた仏教は僧侶が権力にあぐらをかき民衆から搾取を続けてこの頃になるとすっかり腐敗してしまったのである。

 中世に発展した思想に本覚思想というのがある。本覚という言葉は「大乗起信論」から来ている。人は生まれながら仏性を持っているのが本覚。迷いの状態を不覚という。仏性は持っているのだが煩悩に覆われている不覚から次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言う。

 これは昔から論争の種だったが本覚はいつのまにか現実に悟りを開いているということになってしまった。ありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えである。悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれた。

 「草木国土悉皆成仏」という言葉がある。草や木も鳥や獣、虫に至るまで山や河、大自然すべて仏でないものはないということだ。この世に不要なことはなくすべてに意味がありまことに素晴らしい。

 しかし、すでに悟っているので修行は不要となると、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまい危険な思想となる。このころの時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していた。

 かれらのいいぶんはこうだ。
「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに狼藉の数々を働いたのだ。

 中世のカトリックのように平安時代の寺院は荘園領主として農民を支配した。迷信深い中世の農民は地獄に行くことを真剣に恐れた。戦乱や飢饉や疫病が頻発する中で年貢米や強制労働で苦しめたのだ。

 現代でも中世の化石のような坊さんがいそうである。葬式のお布施が少ないと「こんなに少ないお布施では罰があたる。これでは良い戒名を付けられない。もっとお布施を沢山出さないと極楽へ行けませんよ。仏様がかわいそうだ。」実はこれと似た様な宗教家の話は耳にしたことがある。

 本覚思想が発展するのに先立っては密教の即身成仏と禅の頓悟があった。悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとすれば、悟りを開いていない衆生つまり我々一般ピープルは修行を続けても、いつになったら悟りが開けるか判らないので不安になる。その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであればそれを表に出せばよいので探求者の励みになる。それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのである。

 当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになる。言葉による教えの危険性がここにある。月を示す指は方便であって月ではない。悟っている人にとって真実でも、探求者にとっては「あなたは悟っている。」は方便でしかない。それは薬のようなものだ。適切に使用すれば病が癒されるが使用を誤ると毒と化す。

 明恵上人は「あるべきようは」と人々に説き、自らは厳しく戒律を守り、修行によって悟りに至る始覚門の立場を明らかにした。

第2章 愛の心のないものに

第2章 愛の心のないものに
仏法はわからない。

第2章 愛の心のないものに

 華厳宗中興の祖と呼ばれる明恵上人だが華厳経は2世紀頃からインドで編纂され中央アジア、 タクラマカン砂漠のオアシスの地ホータンを経由して297年から774年までの間に漢訳されと いわれている。

隋の頃(581年 - 619年)華厳経を昼夜唱えたら宦官(去勢された役人)の男性ホルモンの分泌が 盛んになり髭が濃くなったと評判になり国を挙げて信仰したとされる。当時は神通力や不思議な 奇蹟を求めたのである。いや昔だけではなく、奇蹟を求める人は現代でも少なくない。

華厳宗を大成させたのはサマルカンド出身の第3祖法蔵(643〜712)といわれている。その法蔵 の兄弟子に朝鮮の新羅から長安に留学していた義湘(ウイサン・ぎじょう)という僧がいた。

栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)には明恵上人が絵師に命じて作らせた華厳宗祖師絵伝 というのが残っている。華厳宗の祖師といえば1〜3祖までを描くべきなのに法蔵の絵は全く無 く、明恵上人は古代朝鮮半島、新羅の 高僧義湘と元暁(ウオンヒョ・げんぎょう)の行状 だけを描かせている。宋高僧伝には日本人の僧侶は誰一人載っていないが新羅の 義湘と元暁だけは載っているほど二人は天下にその名を知られた名僧なのだ。義湘と元暁は著作も多く韓国を代表する高僧である。明恵上人は新羅の義湘と元暁 を大変尊敬していたのである。

義湘(ウイサン)と元暁(ウォンヒョ)は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとした。たまたま旅の途中で雨に会い、そこに あった洞穴で野宿をした。真っ暗な中で元暁は喉が渇いたので入れ物で水を飲んだ。翌朝目をさ ましてみるとその入れ物は頭蓋骨だった。元暁はどくろだと思ったとたんに吐き気を催したとい う。どくろだと思わなければ吐き気はせず、思ったとたん吐き気がする。つまり、すべてのもの は自分のこころが作ってゆく、自分の心のほかに師を訪ねてみても意味がないと悟る。結局、元暁(ウォンヒョ)は新羅に留まり義 湘一人だけが唐に渡った。

新羅に戻った元暁(ウォンヒョ)は妻帯して子供をもうけ酒を飲む破戒僧となって民衆の中に入ってゆき仏教を広めていった。元暁(ウォンヒョ)の著作は膨大にあり超人的な著述とその内容の深さから中国では菩薩が書いたものであろうと賞賛された。元暁(ウォンヒョ)の著作の一部はサンスクリット語に翻訳され仏教の本場インドまで伝わった。

一方唐に渡った義湘は長安で仏教の善妙(ソンミョ)という美しい娘にほれられてしまう。義湘が仏に使える身なのでと交際を断ると 善妙は尼さんになり一緒に仏教を学ぼうとした。師匠も亡くなり帰国の命が出たので義湘は善妙に告げずに舟で新羅に帰国した。義湘の帰国を知って岩壁にいそいで駆けつけた善妙はすでに去ってしまった事を知り海に身をなげた。善妙は龍神と化して航海中の義湘を守護するのだった。

平安時代末期は戦乱が相次ぎ戦で死に別れた未亡人の為に明恵上人は尼寺を建立して善妙寺と名 づけた。善妙寺には明恵上人が亡くなった時、慕った尼が血書で華厳経をしたため清滝川に身を 投げた話が伝わっている。

仏教では恋愛感情は渇愛といって煩悩であり苦しみの原因をまねくものとされているが明恵上人は恋心を抱いた善妙を高く評価している。明恵上人によると愛には親愛と法愛があるという。

凡夫の愛は親愛が多く法愛は少ない。華厳経の悟りの境地、三賢十地の段階は親愛は少なく法愛 が多くなる。十地の段階はただ法愛のみだという。善妙の愛は始め義湘の見た目の肉体を愛したがそこから菩提心の愛に昇華したというのだ。

親愛は見返りを求め憎しみを伴う。結果を求める心(マインド)の愛、に相当し法愛は見返りや 結果を求めず、ただその人の存在から慈悲と愛が溢れ出し静けさや安らぎが伝わって行く精神(スピリット)の愛に相当すると思う。

「愛の心のないものに仏法はわからない。」このように語る明恵上人は親愛を単に否定するのではなくて親愛を昇華して法愛に変容する深い慈悲心の大切さを説いたのだと思う。

韓国の栄州には韓国で一番古い木造建築物がある浮石寺(プソクサ)がある。そこに善妙を奉った善妙堂がある。善妙堂には日本の栂尾高山寺が寄贈した善妙の像が飾ってあるという。
唐から帰国した義湘(ウイサン)が華厳教を広めるために浮石寺(プソクサ)を建てようとしたときに華厳教に反対する人々の妨害にあった。そのとき巨大な竜が石に化けて、反対する人々の頭上に現れ威嚇した。驚いた人々は妨害を止め、無事に寺は建立された。石が浮かんで出来た寺のエピソードから浮石寺(プソクサ)という名前が付けられた。龍神となった善妙(ソンミョ)は航海中だけでなく帰国した後も義湘(ウイサン)を守護したのである。

第3章 紀州の白上の峰

第3章 紀州の白上の峰

第3章 紀州の白上の峰

 明恵上人は二十三歳の時に高雄の神護寺を出て、紀州の西白上の峰に草庵を建て移り住んだ。 草庵跡に訪れてみるとそこは驚くほど風光明媚な所だった。西の海は輝いて本当に息を飲 む様な美しさだ。しばらくあっけにとられて景色にみとれた。明恵上人は西白上の峰を「波の音や漁の声が聞こえてきて騒がしい。」といっているがたしかにこの草庵跡は人の声や麓の様々な音が良く聞こ えてくる。しかし私には特別に騒がしいとは思わなかった。もちろん私が天才の明恵上人より瞑想が進んでいるということではなくて、ある特定の瞑想技法によっては深く内面に進み、感覚が研ぎすまされて来た時には静かな場所の方が良いことがある。明恵上人はそれで東白上に庵を移したのだと思う。

この西白上には行状記の記述通りに一本の松があって800年前の 明恵上人当時の景色と変わりないことを思わせた。この海の風 景を明恵上人はとても気に入っていた。後に栂尾の高山寺に移り住んでからこの海に浮かぶ島に手紙を書いている。

「しばらくご無沙汰したが、お変わりないか。昔、磯に遊びに
島に戯れたことを思い出すにつけても、涙がこぼれるほど懐か しく思っているが、お目にかかれる機会もなく打過ぎたのは、残念である。またそこにあった 大きな桜の木のことも、恋しくてたまらない。手紙を書いて、 様子を聞きたいのは山々だが、 物いわぬ 桜のもとへ文など書 いて送っては、わからず屋の世 間の振舞いに似て、「物ぐる ひ」と見られるやも知れず、そ ういうわけで今までは我慢して いた。「然れども所詮は物ぐるわしく思わんひとは友達になせそかし」自分にとっては、行い澄 ました人々より、そういうものこそ得がたい友と、深く信頼している。大事な友達を尊重しない のは、衆生を護る身として申しわけないことである。よって、このような文を奉る、恐々謹言 島殿へ」

明恵上人は「人間の誰よりもあなたこそが私の最高の友だ」 「あなたはすべてを具足する完全な 存在だ、仏そのものだ」 などと褒めちぎり、「島殿お変わりございませんか。」で始まり「恋い 慕っております。」と人に出すのと全く変わりない調子の手紙を書いて弟子に配達させている。弟子がこの手紙を誰に渡したらよろしいかと明恵上人に訪ねると、島の真ん中で「栂尾の明恵房 のもとよりの文にて候」と大声を張り上げて打ち捨てて帰りたまえといったのである。 ところで 手紙を内容を現代の我々も知る事ができたのは、この弟子が明恵上人の言いつけを守らず棄てず にもちかえったからである。

華厳経の教えでは海に浮かぶ島も宇宙を表す毘廬遮那仏(びる しゃなぶつ 別名大日如来)その ものに他ならないという。華厳経の教えを実践した明恵上人にとって山川草木国土、生きとし生 きるものすべてに、命が宇宙心(ユニバーサル・マインド)が宿っている事はあたりまえのこと だった。そしてそれと交流できた希有な人だったのである。

華厳経は非常に難しいといわれているが「事事無礙の法界縁起」(じじむげのほっかいえんき) という言葉は華厳経をわかりやすく説明した華厳宗の言葉といわれる。どこがわかりやすいのか 理解に苦しむが仏教は中国語に変換されたためにわかりやすいはずの説明自体が難解だ。文字を 読めない庶民にとって華厳経はあまりにもかけ離れた世界だった事だろう。現代語訳では「すべ ての物事はお互いに無関係ではなくて相互に依存している。物事は因縁によって起き、お互いが 溶け合ってとどこおりがない。」となる。

第4章 死を覚悟した修行

第4章 死を覚悟した修行

第4章 死を覚悟した修行

 明恵上人は西白上から歩いて10分ほどの東白上に庵を移した。東白上は光る 海を望む西白上とは異なり熊野古道の山々を望む深い谷に面していてそこには 磐座があった。明恵上人は「座禅行法、寝食を忘れて怠りなし」と死を覚悟し た厳しい修行をしたようだ。満足な食事をとらなかったのでやつれた姿を見て 薬を飲んで治療するように忠告した者がいた事を行状記が記している。幼くし て母を亡くした明恵上人には仏眼仏母象という美しい絵図を生涯の持仏とし居 室にかけ毎日礼拝していた。この絵図の右側には耳無法師と明恵上人の書き込 みがあった。この東白上の峰で二十三才の年、明恵上人はカミソリで右耳を切 り落としたのである。 わたしには明恵上人のように耳を切る勇気も達磨大師の 前で肘を切り落とした恵可の様な気概も持ち合せてはいないが、しばらくの間、谷を見下ろす磐 座に腰掛けて明恵上人に思いを馳せた。

明恵上人が学んだ華厳経には五十二もの修行の段階が示されていて、十信・十住・十行・十回 向という四十もの段階を経て始めて最後の菩薩道に入る事ができるとされる。その十段階を「十 地」と呼んでいる。東海道53次はここから来ているのではないかと言われている。

「十地」の最初の段階、第一の歓喜地とは仏典に「もろもろの仏の子よ、偉大な菩薩が歓喜地に 住したなら、多くの歓喜と、多くの浄らかな信仰と、多くの小躍りする悦びと、多くの柔軟性 と、多くの忍耐を生じ、争いを好まず、衆生を悩ますことを好まず、怒り恨むことを好まな い。」とあり不安や心配から離れ心に喜びが生じ、もう少しで仏に達する段階である。

これを読むと最初の段階からもうこれ以上の境地はいらない様な気もするがあと9段階もあ る。華厳経の十地品は華厳経の中でも成立がもっとも古く紀元1〜2世紀頃といわれている大乗 仏典である。ゴータマ仏陀、入滅後すでに数百年の年月が経過していて教えも複雑になりしかも 漢訳化され難解である。

驚くのは最初の歓喜地に達したのは中観のナーガジュルナ(龍樹)と唯識のアサンガ(無著) のたったの二人しかいないという。あとの仏教徒は皆レベルが低いという事になる。仏陀の優れた弟子達は入法界品や維摩経などの大乗仏典の作者達にかかるとケチョンケチョンである。ゴータマ仏陀を理想化しその弟子達の境地は低いとし大乗仏 教の菩薩であるナーガジュルナ(龍樹)とアサンガ(無著)を高く評価する。そこには原始仏教 から上座部と大乗仏教とに分裂した時の確執が伺えるようだ。大乗仏教の教えによると自分を 勝っていると思う事は増長慢だそうだが、それにしては大乗の意味そのものが小乗と比較した増 長慢の言葉なのである。自分の事になると途端に無自覚になる例かもしれない。

第六の「現前地」(真理の境地が目の前に現れる)には有名な華厳経の核心の言葉「三界唯心偈」がある。私たちの三つの世界はわれわれ自身の心が作り出す「虚妄」にして、「虚偽」である 幻の世界という。

仏教の教えにアビダアルマの無我の教義がある。「たとえば部分が集まって、車という名称が 生ずるように、(五つの)ものの集りがあれば、生物という世俗の名が生まれる。」 (雑阿含 経)自己とは五つの要素が集まったもので自己には実体がないとするのである。

仏教の無我(アナートマン)はバラモン教の我(アートマン)に対応して仏教が優位に立つ為の 教義ではないかと思う。それは相対的な教義である。のちに無上ヨーガタントラから応身(粗大 な物質的な過ぎゆくリアリティ)しか扱っていないと指摘される。精妙で微細な領域である報身や法身を扱っていないからである。

ナーガジュルナ(龍樹)によると絶対の真実は非二元で、自己でも非自己でもなく、我(アート マン)でも無我(アナートマン)でもなく、永遠でも瞬間でもなく客体と主体でもない。我と無我の中間は表現できない。現象レベルでは五つの要素なしには自己は存在しないし、自己なしには五つの要素は存在しない。ナーガジュルナ(龍樹)はこれらは相互的、相対的な観念でありど ちらも非現実であるという。

ようするに絶対の真実である空性は般若の智慧を持った者しか知り得ないのだ。智慧が開いた者 でなければ何を語っても的を外してしまうのである。

華厳経の「十地品」では第六で般若(智慧)が完成したら次に慈悲の働きが現れてくることを説 いている。華厳以前のさとりは自分の煩悩から離れることだったが華厳経のさとり(菩提bodhi) は人々を救う事が含まれるのである。

「仏は大慈悲心を具えていて、それを成長させ、衆生をおのおの理解して、しかも衆生を捨てま せん。またしずかなさとりの境地を捨てるということもありません。いいことをしても、いい報 酬が得られるなどとは考えません。一切の法は幻のごとく、夢のごとく、稲妻のごとく、こだま のごとく、不思議な力でつくりだした化のようだと観ずる。すなわち空と観じます。」華厳経 梵行品

明恵上人の求法(ぐほう)の旅から弘法(こうぼう)の旅へのタ ーニングポイントが紀州の白上峰の出来事ではなかったかと思う。 顔が整っていれば心の弱い己のことだから尊敬されて出世してしま うだろう。それでは修行の妨げになってしまう。そこで実の母と思 う仏眼仏母象の前で「顔を傷つけて人間であることをやめ、志を堅 くして如来の跡をふむ」ことを願いまずは目をえぐろうとした。し かし盲目になると経文が読めなくなると考え、次に鼻をそごうとし たが鼻水がお経に垂れ汚しては申し訳ない。手を切ると印が結べな くなって困る。そこで耳ならさして不便はあるまいと右耳を仏壇の足に縛りつけて 剃刀で切り取ってしまう。「血が飛び散って本尊と仏具にかかれ り。その血今に失せず」と行状記にその凄惨な様子が記されてい る。

その翌日 明恵上人は文殊菩薩が黄金の獅子に乗って虚空に浮か んでいる大変リアルな夢をみる。この体験はその後の明恵上人に非 常に大きな影響を与えたようである。「多少人に説教ができるとすればこの出来事があったから だ。」とのちに明恵上人は述べている。

第5章 夢見の技法

第5章 夢見の技法

第5章 夢見の技法

華厳経の教えではこの宇宙はあらゆる部分がたがいに繋がりあい情報を共有し、お互いに影響 しあい全宇宙に作用しているという。睡眠時の夢と起きている意識とはお互いに関係しあってい るので明恵上人にとって夢は現実の仏の道と同じで大変重要だったのである。35年間丹念に記録 した明恵上人の夢日記はあまりにも有名である。

明恵上人は夢見の技法に関する様々な教典のアンソロジーを作成して手元に置いて実践してい
た。
「金剛頂楡伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経」の下巻には「もし未来の成就や不成就、善悪につ いて知りたいと欲するなら、衣をもって頭を覆い、右手を右旋回させて顔を撫で、大白衣真言を 二一遍講し、右脇に臥して、雑念雑想を離れてひたすら大白衣観自在菩薩を観ずる。すると眠る や、老人が見えたり国王が浄行するのが見え、白衣の少年や夫人が見え、あるいは華果や種々の 吉祥が見えたりする。こうしてまさに未来のことを知ることができる。」とあり

『文殊師利根本儀軌』では、「まず山中や河岸の清浄な地にて安居し、仏像を安置して、吉祥日 をえらび香華や供物を献ずる。そして仏像から遠からず近からぬ場所に吉祥草を敷き、頭を東に 向けて眠る。そうすると好夢が得られる。」とある。

夢見の技法をまとめると次のようになる。
静かな場所で寝る。寝る時には熟睡しないで出来るだけ浅く寝るようにする。右手を枕に右脇を 下にして仰臥するのがよく、女性は左脇を下にして仰臥するのがよい。夢を保つには喉と眉間に 心を集中させる。夢を自覚できない時は喉でサンスクリットの赤いアの字を観想する。それでも 困難な時は眉間に豆粒の大きさの白い光を観想する。眠る前の頭頂でグルや守護仏を観想する。
チベット仏教の夢ヨーガでは夢の中で守り本尊イダムと一体化する。夢の中でフーンの文字を心 臓のチャクラに観想する。夢の中で心臓のチャクラから光を発し体も含めてすべてをフーンの中 に溶け込ませる。最後はフーンの文字もすべて解体し、光明の中で空性を悟るのである。

夢の修行を続けて行くと好夢を見るようになる。明恵上人は白上の峰で文殊菩薩の夢を見てか ら好夢をみることが多くなった。「ある時、夢に見る。一つの塔あり。われ、昇るべしと思ふ。 すなはち一重これを昇る。その上に、また重あり。随ひて、また昇る。此の如く、何重ともなく 昇りて、今は日月の住む処をも、すぎぬらむと思ひ、最上の重に昇りて見れば、九輪あり。ま た、これをのぼる。流宝流星の際にいたりて、手を懸けぬと思ひて、覚めおわんぬ。」

明恵上人は太陽も月も超えて昇るべしと思って一番高い塔の最上の階まで昇り、もう少しで流 星に手が届きそうになった所で目が覚めてしまったのである。この夢を見た3週間後に明恵上人 は続きの夢を見る。

「其の後、のぼりをはらざることを恨みに思ふところに、廿余日を経て後の夢に、また此の塔に あへり。先日、のぼりをはらず。今昇りきはむべしと思ひて、重々是を昇る事、さきの如し。今 度は、流宝流星の上に昇りて、其の流星の上に立ちて見れば、十方世界、悉く眼前にしぎくきよ うてんみえ、日月星宿も、はるかに足下にあり。是は色究章天よりも高くのぼれる心地して、其 の後、また地に降り立つと見る。」

3週間も過ぎてまた同じ塔の夢を見るという事は明恵上人にとってかなり重要な夢だと言う事 がわかる。ついに今度は流星の上に昇り、太陽も月も星もはるか足下に見えるくらい高く昇って しまう。色究章天(しきくうきょうてん)よりも高く昇ったと感じたということはどうゆう事だ ろうか。

仏教のアビダルマの世界観では欲望にとらわれたものが住む一番下の「欲界」に地獄、餓鬼な ど9つの世界がある。その中には神々の住む兜率天(とそつてん)も含まれる。その「欲界」の 上に欲望を離れた生きものが住む色界がある。色界には17の世界があり色究章天(しきくうきょ うてん)は「色界」の最上階、究極の天という意味なのである。この上はもはや欲望も物質も超 越した「無色界」しかない。明恵上人は物質的な「色界」を超えて「無色界」に達したというの である。

「無色界」には4つの世界しかない。「空無辺処くうむへんじょ」「識無辺処しきむへん じょ」「無所有処むしょうしょ」「非想非非想処ひそうひひそうじょ」である。これはゴータマ 仏陀が王宮を抜け出してから師事した瞑想の先生アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマ プッタの瞑想の境地のことをさす。「空無辺処くうむへんじょ」は体を忘れ時空の広がりだけが 感じられる境地で「非想非非想処ひそうひひそうじょ」は意識があるともないともいえない境地 のことである。仏伝によるとゴータマ仏陀は二人の瞑想の境地にたちまち到達するが満足出来な く、自分一人で修行を行なったと言われている。

最初は瞑想の境地だったのが時代が後になると無色界という場所の事になってしまった。しか もゴータマ仏陀はさらにそれさえも超えた存在ということになっている。仏教はゴータマ仏陀を 神格化し、そして次々と思考を加えた。こうして仏教の教えはだんだん複雑になっていったので ある。

河合隼雄の著書「明恵 夢を生きる」で心理学者のユングが七十歳くらいの頃、心筋梗塞を起 こして危篤状態に陥ったときに見た体験を紹介している。

「私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かん でいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸とがみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンが あり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の 球形はくっきりと浮かび、その輪郭はすばらしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いてい た。地球の大部分は着色されており、ところどころ煙銀のような濃緑の斑点をつけていた。左方 のはるかかなたには大きな、荒野があった、そこは赤黄色のアラビヤ砂漠で、銀色の大地が赤味 がかった金色を帯びているかのようであった。」

ユングは続いて、このような高い地点で、ふと見ると宇宙空間にただよっている巨大な石をくり 抜いてできている礼拝堂があり、そこに入ってゆこうとした体験を語っている。

「私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべて が脱落して行くのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また 地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過 程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験 し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあ るような実感であった。」

ユングの体験は自我が解体するシャーマンの旅とよく似ている。「私はすべてが脱落して行く のを感じた。」というのはすべてが消え去って何もない感覚の「無所有処むしょうしょ」に相当 し、そして「残ったものもいくらかはあった。」はあるかないかの微細な意識だけが残る「非想 非非想処ひそうひひそうじょ」のように読み取れる。

夢の中で夢を見ている事が自覚されると意識がクリヤーになり、景色の色彩が鮮やかに眼前に広 がり、無限の力が湧いて来るかのように意識が高揚する。自我の境界を越えるトランスパーソナ ルな体験は誰にでも起きる可能性はある。しかし夢を見ているかぎりは夢を見ている私が存在す る。私も含めてすべてが光明に溶け込むには至っていないのである。

どんなに素晴らしい体験をしても見ている私、つまり体験者がいるうちはどのような体験で も、それはかならず過ぎ去ってしまうのである。それは永遠のものではないからだ。瞑想の最高 の段階、無色界の最上階「非想非非想処ひそうひひそうじょ」を別名、有頂天という。現代の有 頂天とは、喜びで舞い上がること。ひとつのことに夢中になり、うわの空になることだ。宇宙の 果てまで行こうが、クンダリニーが上昇しようが、霊界に行ってキリストに会おうがとにかくど んなに素晴らしい体験をしても有頂天になってはいけない。やはりそれは夢の中の出来事であ る。それはつかの間の観光旅行にすぎないのである。

参考文献

「韓国と日本の仏教文化」鎌田茂雄 學生社
「明恵上人」 白洲 正子 講談社
「明恵 夢を生きる」 河合 隼雄 京都松柏社
「明恵上人集 」久保田淳 山口明穂 岩波書店
「名僧列伝〈1〉明恵」 紀野 一義 講談社
「明恵上人」紀野一義 PHP研究所
「明恵 」田中 久夫 吉川弘文館
「法然対明恵」 町田 宗鳳 講談社
引用図画
仏眼仏母象「高山寺展」 朝日新聞社
華厳宗祖師絵伝「高山寺展」 朝日新聞社

Copyright (C) Ihatov Institute of Integral Body & Mind all rights reserved