ノンデュアリティ(非二元)

 まず最初にノンデュアリティ(非二元)そのものを説明する事はできないことをお断りしなければなりません。説明されたノンデュアリティは言語による概念であってノンデュアリティではないからです。

 あらゆる言語の表現をノンデュアリティ は超えているので言語でこれだと説明できないのです。言葉は比喩として使うので、文化や価値観、体験を共有していないと同じ言語であっても言葉の内容が事なるので通じなくなります。

 言語を超えたものを言語で記述することはできないのです。それでも言語を使わざるをえないので、次善の策として一番近いと思われる言葉を使った比喩でしか伝えることができないのです。そして月を示したはずの指を見てしまい月だと思ってしまうことが起きてしまいます。それを踏まえてお読みください。

 ノンデュアリティを説明し、それを理解させようとする教師はいますがノンデュアリティを与えることができる教師はどこにもいません。今までもいませんでしたが、これからも出てくることはないでしょう。
ノンデュアリティを与えることはできないのです。すでに持っているものを与えることはできません。ノンデュアリティを受け取ることはできません。受け取ったとすればそれはノンデュアリティでありません。そのことを探求者のマインドは理解できません。

 ノンデュアリティ(非二元)はアドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学のアドヴィタを英語訳 にしたもので、文字通り「二ではない」ことです。自己の世界の境界が消えて合一した状態で伝統的に悟りや光明と呼ばれてきました。


ノンデュアリティを仏教ではゾクチェンやマハムドラー、如来蔵や本覚という言葉で表されてきました。如来蔵とはサンスクリットでタターガタ・ガルバといい「如来を内部に宿すもの」という意味です。人間の本性は完全な仏であり、煩悩に覆われているためにそれが隠れてしまっているというわけです。

 本覚はありのままの現実がそのまま悟りのあらわれであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えです。ですから悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれました。禅では様々な言葉でいいあらわしてきました。

「一無位の真人」とか、思考を超えた状態を「非思量」と言ったりもしています。十牛図の八.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)などもそうです。

ネオプラトニズム(新プラトン主義)のプロティヌスは一者( to hen)英語で(the oen)と呼んでいます。
一者は存在ではなく、存在の領域にはありません。かといって非存在だという意味でもありません。そして一者はすべてのものを生み出すもとなのです。すべてのものが一者から出てきますが、一者の中には何もありません。一者は増える事も減る事もありません。全体から全体を差し引いても足しても全体が残るからです。

ヨガでは瞑想の最高の段階をニルビカルパ・サマーディ(無種子三昧)やサハジャサマーディと呼んでいます。ノンデュアリティ(非二元)を目覚め、夢見、眠りの三つの意識状態を目撃する四つ目(トゥリーヤ)の目撃者さえも超えているという意味でトゥリーヤーティータと呼ぶこともあります。
ウパニシャッドではノンデュアリティ(非二元)を直接表すことができないので「ネーティ・ネーティ(それではない、それではない)」と否定型で表そうとしてしてきました。

 悟り・光明・ノンデュアリティ(非二元)についての文献は無数にあります。
しかし、これらの言語のコレクションをあつめても結局、自我の栄養になるだけです。非二元ではなく二元性のままです。

いくら「わたしはあるがままで完璧だ」「瞑想もワークも必要ない」と自分を正当化しても抑圧したエネルギーは無意識にそのまま残されます。「ノンデュアリティ」を概念化して自分自身の問題との直面をさけ現実と向き合うことの逃避に使われてしまうと、あるがままの自分を見ないで自我を強化し防衛してしまうことが起きます。

 ノンデュアリティとは状態でも、体験でもありません。思考に同一化している自我の状態にある人にとってノンデュアリティ(非二元)の状態とは何か劇的な体験と思っているようです。ノンデュアリティはすべての意識状態の基盤になるものです。喜劇や悲劇のドラマが映し出される映画のスクリーンのようなものです。しかし、この例えも不完全です。スクリーンと映像が分離しているように思えるからです。

 次から次へと現れては去ってゆく思考や感情を観照して、それ自体が実体のない空である事を見抜く訓練が瞑想です。心が静まった時、心の水面は鏡の様に景色を映し出し、常に見守り続ける観照者があらわれます。あるがままに思考全体を見守り続けている観照者、観照者が思考を超えた自己です。しかし、そこには観察するものと観察されるものという微妙な二元性が残っています。

 ノンデュアリティでは観察するものと観察されるものとの境界が消えて一つになっている状態です。しかし、観察するものがいなければ何が起きているのかわかりません。ノンデュアリティは観照者が目覚めていなくては理解できないのです。観照者は自己を観照するということでは二元性にありますが観照する者であると同時に観照される者であるということではノンデュアリティにあるのです。

 ノンデュアリティは常に目の前にあります。水の中にいる魚が水を探すようなものです。あまりにも、あたりまえにあるために特別な体験と思っているマインドはノンデュアリティを見逃してしまうのです。

 ノンデュアリティがわかるためには思考が静かになり、眠っている観照者が目覚める必要があります。思考は思考を超えたノンデュアリティをとらえられないからです。そのためにノーマインドを起こす為の瞑想法が古来から開発されてきました。ですが、それは薬のようなものです。健康な人に薬は必要がないのです。

 不安な時、憂鬱な時、深刻になっている時は思考と一体化しています。思考が自分だと思っているのです。ノンデュアリティだからそのままでいいんですよと言われても、どうすれば良いのかわからない人は思考からの脱同一化の仕方を学ぶ事が必要なのです。

 自我は内側にある不安に触れたくないために、あるがままの全体を受け入れることから逃げようとします。自我は限界の中でしか物事を見ていません。共同の幻想の中で夢を見ています。あるがままの自分を受け入れると理想とする自己イメージにあわない影と遭遇します。いまここに気づいているようにすると、分離していた仮面と影の境界線から情動が浮上してきます。自我は影を見たくないので、不安を解消しようと何かをしてしまうことが多いのですが、思考にエネルギーを与えないで、その衝動を自覚してしっかり受け止め、受け入れると健全な自我が形成されます。

 私と他という分離感が強いうちは深刻になるという病があるのでワークが必要なのです。

ノンデュアリティ(非二元)が特別な人だけの言葉である時代は終わりを告げようとしています。ごく普通に日常生活を送っている大多数の人々が自己の存在に目覚めようとしています。

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