カビール Kabir


インドにはサント(聖者)が無数にいるがサントの中のサントといえばラーマナンダの弟子とされるカビール(1425~1492)である。

カビールがラーマナンダの弟子かどうかははっきりしない。史実はともかくカビールの出生は処女の未亡人にラーマナンダが祝福を与えたところカビールが生まれたことになっている。いわゆる私生児なので母親は恥じて子供をベナレスのガート近くに捨ててしまい、その子を見つけて育てたのがイスラム教徒で職工のニールーとニーマー夫妻といわれる。カビールは字が読めず俗語で話したとされる。

カビールは祭儀、儀式、偶像崇拝の形式主義を手厳しく指摘した。ヒンドゥー教徒のバラモンは低位カーストをいやしいけがれた者と考える。

「他の人に触れられるとけがれをはらう為に沐浴するが、君ら自身よりももっと堕落したものがいるなら教えてくれ」

ヒンドゥー教もイスラム教も沐浴して身を清めてから礼拝するのだがカビールは沐浴をしてみたが何の効果もなかったから無意味であるといった。

「神聖なる沐浴所には、水以外に何もない。それが無用なものであるということを、わたくしは知った。何となればわたくしはそこで沐浴したからである。」

カビールはガンジス河もジャムナー河も単なる水に過ぎないといい儀式の無用をといた。また、断食や苦行の意義をみとめなかった。髪がぼうぼうのヨガ行者をヤギのようだといった。。

「あなたがたが頭を丸め、地面にひれ伏し、あるいは流れに身を浸したとしても、なにほどの功徳がありましょうや?」

「あなたがたは供儀の儀式で血を流すとき、自分が浄められたと言い、自分が顕わしもしない美徳を誇りにする。あなたがたは口をすすぎ、数珠玉をつまぐり、沐浴をおこない、寺院で頭を垂れたところで、なにほどの功徳がありましょうや?」

神は寺院やモスク、神の像にあるのではなく、コーランもヴェーダの聖典も空虚な言葉に過ぎないとカビールはいう。

「ヴェーダは虚構の物語で偽りだ。私はサンスクリットを習った。しかし私がさまよっているのに、これがなんの役に立つのだろうか?」

イスラム神学者には予言者の言葉を盲信することをやめるようにいった。教典の中には死んだ言葉があるだけだ。

聖者崇拝を捨てるようにすすめ、ラーマやクリシュナを礼拝しても彼らはすでに死んだ人間だといった。形式的なマントラの意義をみとめず、呪文を唱えてだれが解脱をしたか教えてくれといった。

ある日カビールがメッカの方角に足を向けて寝ていた。するとイスラム教徒が「メッカに足を向けるとは、とんでもないことだ。」と叱った。「では神のいない方角へ私の体を向けてくれ」とカビールは語った。

「あなたがたが祈りの言葉を唱え、メッカやメディナの聖地に巡礼するとき、あなたがたの心には欺隔がやどる。もし神が神殿にいますなら、宇宙はだれの棲家なのでしょう?」

「神像は生命のない死物である。それは語ることができない。わたくしは大声で呼びかけてみたのだが。神像の石よりも粉挽き小屋の石のほうがまだましである。」

カビールは神をラームと呼んだがどんな名前で呼んでもかまわないといった。人々のラームはヴィシュヌ神の化身のラームだがカビールのラームは唯一絶対神のラームである。同じラームでもそれはあまりにも違いすぎる。

「唯一の神ラームは、全ての中におわし、一なる神から流出したものは、唯一なる神の一部である。唯一なる神はどこにでもおわす。しかし、唯一のラームは一つである。」

「ヒンドゥー教徒もイスラム教徒も、その唯一の神に対して、ヴィシュヌ、ラーム、ハリ、ゴーヴィンド、アッラーという名前で呼んでいるだけにすぎない。どんな名で呼ぼうが唯一の神は普遍である。」

すべての神の名、アラーもシヴァもヴィシュヌも唯一の神の別名に過ぎない。イスラムもヒンドゥーも同じ神を礼拝している同じ神の子である。インド人とトルコ人が違った家系のものであるというのは誤りである。流血の戦いを止めお互いに尊敬しあうようにカビールは繰り返しのべた。

「わたしたちは、わたしたちの存在をアラーとラーマに負うている。したがってわたしたちも、生きとし生けるすべてのものに同じ慈愛を示さなければならない。」

「万物のなかに一なるもののみを見よ、あなたがたを惑わすのは二次的なものである。この世に生をうけたすべての男女は、あなたがたと同じ性なのだ。世界はかれのものであり、アラーとラーマの子らもまたかれのものである。 かれこそは、わが師、わが聖者。」

カビールは行者(ヨーギやファキール)ではなく結婚して家庭生活をもち一生を単なる機織り職人としてすごした。サントとは僧侶や出家修行者と違い質素な生活をおくる庶民であり神秘家だった。ニルグーニ・バクタ(無属性の神に帰依するもの)として、神と融合したグルとして知られている。サントのほぼ全員が下層カーストに属している。

「ラーム、私はあなたのために布を織りました。これはただの布ではありません、大事にしてください。その糸の一本一本が私の感謝と愛と慈しみと祈りに震えているのです。これを大切にしてください。」

ベナレスは昔カーシーと呼ばれカーシー産の織物といえばゴータマ仏陀が王宮にすんでいた頃に身につけていた最高級のブランドとして昔から名が通っていた。ベナレス周辺の職工は12〜14世紀頃に集団で大量に改宗したイスラム教徒が多く低位カーストに属していた。

モスクや寺院に行って鐘をついて礼拝したり、偶像に花を捧げたり、肉体の感覚を殺して苦行することで神を喜ばすことはできない。

真の宗教的な生活は世俗の中にある。畑で作物を育てる中に、布を織る仕事の中に、幸福な結婚生活の中に神を求めるべきだとカビールは説いた。人々に対して思いやりと愛を持ち、行ないを正しくして、世の中のざわめきの中でも心安らかで、地上の生きとし生けるものを自分自身とみなす人こそ永遠の存在に達するという。

「おお友よ、君が生きている間に神を望め。君が生きている間に知れ。きみが生きている間に理解せよ。命のうちにのみ解脱がある。生きている間に君の束縛がやぶられないならば、死んだからとて、解脱する希望があるだろうか。」

カビールはベナレスの近くのマガルで亡くなった。ヒンドゥー教ではガンジスで火葬にすると天国に生まれ変わると信じられているので火葬にして近くの河に流す。ヒンドゥー教は墓を持たないのである。イスラム教は土葬する。イスラムにとって死は最後の審判の日までの束の間の眠りにすぎない。最後の日に墓場から復活して審判を受け天国か地獄で永遠の生活をおくるのである。ヒンドゥーは生・死・再生の循環構造だがイスラムは生・死・審判の直線構造なのである。またイスラムでは裁きの日に罪人は丸焼けにされることになっているので火葬はとんでもないことなのである。このようにイスラムとヒンドゥーの死後の世界観はかなりの違いがあった。そのためカビールの死体の扱いでイスラムとヒンドゥーの間で論争が起きたのである。

言い伝えによると死体に掛けてあった布を取り払うと死体は消えており、そこに花束が積まれていた。イスラム教徒は花束の半分を受け取りマガルに埋めて墓をたてた。ヒンドゥー教徒は花束の半分をベナレスに持ち帰り火葬にして河へ流して大地に還したという。

「サドゥーよ、サハジャサマーディはすばらしい。師の威光が生じ、日々増した。私がどこを歩こうとも、それは聖地の巡礼であり、何をなしてもセヴァ(奉仕)となる。私が横臥すれば、それは礼拝となり、他のいかなる神も供養せず。私が語るも聴くも、それはチャンティングやキルタン(声明)であり、飲食がプジャ(供養)である。家も廃屋も同じ、他の考えはなし。私は眼を閉じず耳を塞がず、体に少しの苦痛も与えず。ムドラー(手印)とアサナ(座法)に別れをつげた。開けた目で笑いのうちに、美しき神の姿を見る。静寂が心に住まい。欲望は離れた。立っても座っても沈黙は離れず、かくして私は道を得た。」

カビールの名はアラビア語で「偉大な」を意味し、社会改革者として、神の化身として、ヒンドゥー教、イスラム教、シーク教、共に聖者として崇められた。カビールの死後カビール・パンティーができベナレスを中心に50万人の信者がいる。カビールは偉大な神秘家であった。

カビールは偶像崇拝を禁じたにも関わらず皮肉なことにカビール自身が偶像視されて崇拝された。コーランやヴェーダを無意味なものとしたが彼の言葉は教典となり音節がつけられ詠唱された。カーストを否定したカビールの信奉者は職工に多くインドでは一つのカーストに位置づけられている。

ヒンドゥー教徒とイスラム教の融和、カースト制度の改革への努力は続けられて来たがその試みはことごとく失敗に終わったように思われる。

カビールはインドでは有名なのだけれども日本ではあまり知られていないようだ。2002年にようやく一冊だけ日本語訳が出版されただけなので寂しい状況だ。カビールは500年以上前の人物なので伝説化しまっている。近代に生まれたならばラーマクリシュナよりも有名になっていたかもしれない。

参考文献

「宗教詩ビージャク」カビール 平凡社
「インド思想史」中村 元 岩波書店
「ヒンドゥー教史」中村 元 山川出版
「ヒンドゥー教」R.G.バンダルカル せりか書房
「アーリアンとは何か」津田 元一郎 人文書院
「インドの神々」リチャード ウォーターストーン 創元社
「中世インドの神秘思想」トゥッラ 刀水書房
「インド思想」早島 鏡正 東京大学出版会
「ヒンドゥー教の本」 学習研究社
「ヒンドゥー教」 ニロッド・C. チョウドリー みすず書房
「夜眠る前に贈る言葉」和尚 市民出版社


Copyright (C) Ihatov Institute of Integral Body & Mind all rights reserved