グル・ナナク Guru Nanak


 

 インド関係の本を開くとカースト制度とヴァルナについて印鑑でも押したように同じことがかかれている。

 普通の説明でのヴァルナは肌の色を表し階級制度を意味するとかかれている。ところがヴァルナはもともと人のもって生まれた天分、性向を表すという。人間の能力には差があるので天分に応じた役割がある。それに応じた職業を考えること、そして天分に応じて能力を発揮して、社会の秩序を保っていくことが大切だという。それが神の掟だとされる。

 日本の神道に「神集いに集い給い、神議りに議り給う」という祝詞がある。神道の神というのは、宇宙そのものの神からわかれてきた人間一人一人のことを指す。ある日、司になる人が「明日から籾をまく」と一言いうと、一人が「私の家には種があるから種をまきます」また一人のものが「私はこうします」というふうに、一人一人が皆自分の分を表す。それが「神議りに議り給う」という。「はかる」というのは自分の分量をはかるということだ。協議とは違って上からでてきたひとつの流れに対して、下がみな分担して受け持つので争いが起きないと言う。これが日本の古代においての祭り事の姿だとされる。

 人種差別になる肌の色を表すヴァルナと天分に応じた役割を意味するヴァルナとでは大分ニュアンスが違う。昔のヴェーダの時代のカーストは一種の分業や職能を表すのであって階級や生まれとは関係なかったらしい。ヴェーダの昔、職業は固定していなかったようである。いつの間にか身分差別や階級制度が定着していったものと思われる。

 ラーマーヤナにシータが貞操を疑われ潔白を示す為に火中に飛び込みアグニ神が助ける話があるがインドにはサティーという残酷な習慣がある。夫が死亡したときに泣き叫ぶ未亡人を生きたまま夫の荼毘の火の中に投げ入れるのである。その悲鳴は遠くまで聞こえたという。サティーは未亡人の最高の美徳とされた。

 カースト制度が厳しくなったのはイスラムがたびたびインドに侵略するようになってからだとされている。イスラムからヒンドゥーを守るためにヒンドゥーの保守化が著しくなったのである。迷惑なのはインドに生まれた女性である。サティーだけでなく女性隔離の習慣やダウリーとういう持参金制度も厳しくなった。そのためパキスタンのブット女史の家系では代々娘は嫁ぐことはなく、嫁をむかえることによって大地主になったということである。

 インドでは持参金目当ての花嫁殺人事件が後をたたないといわれる。いまでもインドでは亭主が花嫁に灯油をかけて火をつける殺人事件の新聞記事がのることがある。花嫁を次々と殺し新しい花嫁をむかえるたびに財産が増えるのである。そのため財産の目減りを惜しむ者は女児を敬遠するのである。

 16世紀のインドで女性解放を行ない又、徹底した平等主義から最初の共産主義者といわれたのはナナクGuru Nanak(1469-1538) である。ナナクは1469年4月15日にラホールの近郊60キロのタルワンディーに生まれた。父は村の役人で母は熱心なヒンドゥー教徒だったといわれる。カーストはクシャトリア階級のKhatriカトリーであった。ナナクは小さい時から変わった子でヨーガ行者やサドゥーと話すことを好んだという。ナナクは神秘家カビールの影響を受けたといわれる。

 「水に住んでいる魚がどうして『私は喉が渇いている』と叫ぶことができるか、これをいうために開いた口は水の中にあるのに」カビール

 この当時のラホールはイスラム政権の中心地でナナクの父のカトリー階級は指導的な仕事に従事していたのでナナクは公用語のペルシャ語やアラビア語も習ったという。ナナクは30歳のとき3日間行方不明になり、戻っても瞑想をして家族に口を開かなかったという。

 最初に次の様な言葉を発したといわれる。

 「私は神の意志によって、神の宮殿に導かれた。
そして、甘露で満たされたカップを与えられた。
神は「これを祝福し、賞賛するであろう」といわれた。
わたしは、そのとき「この世にムスリムもヒンドゥーもない」と直感した。」

 その後ナナクは巡礼の旅に出た。チベット、カイラス、ベナレス、南インド、スリランカ、カルカッタ、バグダッドやメッカまで訪ね25年間に渡り聖地を巡礼をした。巡礼の後パンジャブで25年間教えを説き80歳で亡くなった。彼は息子を後継者に選ばず弟子の中から選んだ。

 ナナクはヒンドゥー教の偶像崇拝や教義を鋭く批判した。

 「ヒンドゥーは根本の教えを見失い、誤った道に進んでいる。
ヒンドゥーは石の神を祈るようにいう。
彼らは真理をみることも、聞くことも出来ない。
まったく真理に対して語る資格はない。
無知にして愚かなる人々は石をもって神と崇める。
沈む石では河を渡れないように
石像を拝むことで、どうして救済が得られようか。」ナナク

 イスラムの型式化した儀式や断食も否定して一瞬一瞬を十全に生きこの世の幸福を求めることを説いた。

 「真にイスラムと呼ばれるのは難しい。
本当にそうよばれるためには、聖者を信仰し富を捨て自我を燃やし尽くすこと。
真のイスラムは予言者を信仰し、生死への疑念を持たぬ人。
神の意志に服従し天におわす神を拝せば、自我はおのずと打ち砕かれる。
だからナナクよ
誰にでも親切にできるものが真のイスラムである。」ナナク

 ナナクはヒンドゥーとイスラムの両方から聖者として崇められた。かれの内にはヒンドゥーとイスラムの違いはなかった。

 「誰も神の力の偉大さを表現することはできない。
誰もその力をもっていない。
誰が神の恩威とその御徴を表現できようか。
誰が神の徳と偉大さをその計らいを知り表現できようか。
誰が人間を形あるものとされ、また塵に戻す力の神を表現できようか。
誰が神が我々をご覧になっておられること、そして我々が常に神と向いあっていることを表現できようか。
いかに言葉を費やそうとも、神のことを表すことは出来ない。」ナナク

 ナナクは言語によって神を表現出来ないと述べている。神を記述する言語がないのである。

「グル以外には神のことは表現することはできない。
それをすれば空しさが増すだけ。
神のことを書きとめる紙もペンも、また書き手もいない。」ナナク

 「神は思考で捉えることが出来ない。
自分自身を超え神と出会い神に溶け込んで初めて知るのである。」ナナク

 「グルの教えによって真理は感得され、真理を体得した人は神の内に消える。
神の教えに従う者は神に会い、神と融合し、神の存在を理解する。」ナナク

 ナナクは形式的な儀式や信仰では神をしることはできないと説いた。

 「形だけの巡礼、苦行、哀れみ、喜捨といった宗教行為などは芥子実ほどの価値もない。
心の内におられる神を心より信頼し、その言葉に従うもののみに神の救済はある。」ナナク

 「神は唯一なり。真理は御名なり、創造主であり、恐れなく、恨みもなく、不滅であり、他によって生ぜず、自己自身で存在する。」ナナク

 シークが大きく発展するのは第3代のアマル・ダスの時代だといわれる。ナナクの教えはヒンドゥーとイスラムの両方から受け入れられたので庶民が集まってきた。これをナナクはサンガトと呼んだ。仏教のサンガと似ているがシークはすべて在家の集団である。


アマルダス Guru Amar Das

 このころの16世紀の西北インドにはジャット族とラージプート族の二つの大きな民族があった。ラージプート族はクシャトリア階級なのにジャット族はシュードラ階級に落とされていた。その理由というのが未亡人の再婚を認めたためにジャット族の先祖はシュードラにされてしまったという。ラージプート族は再婚を認めなかった。再婚を認めていたジャット族はおそらく母系社会の流れを残していたのだろう。第3代のアマル・ダスはカーストを認めずサティーを否定し離婚も認めていたのでこの時代に多くのジャット族がシークになり勢力が拡大した。

 「すべての人は神の下に、平等である。そこには(身分の)高
低も、闇も、恐れも、迷信も、不可触民もない。そして、民族の違いも、信条の差異も、政治的正統性も、宗教的情熱さえも関係しない。」アマル・ダス

 ナナクはすべての男女やヒンドゥーとイスラムの異なる宗教が平等に暮らす理想社会をこの世に造ろうとしたのである。シークの共同体では女性の説教師も存在し徹底した平等主義だった。現代でも司祭も寺院の管理人も選挙でえらばれ全員が共同食堂(ランガ)で食事をとる。第3代アマル・ダスの時代の1567年にアクバル帝をあらゆる階級の人々と一緒に共同食
堂で食事をさせたという。

 「もし、人がたくさんの知識と思いやりの心で、多くの人を助けたとしてもこの共同体に加わり、神の御名を唱えなければ十分とはいえない。グルに導かれた集団を通して、人は神の恩籠に浴することができる。そこに属し、互いに助け合い神の名を唱える者には心の平安がある。」ナナク

 仕事をしないで布施にたよって生活するヨガ行者を批判してナナクは人々に勤勉を説いた。

「ヨガ行者は町の近くに住んではいないが
心は穏やかではなく他人の妻をほしがる。
神の御名を唱える以外には
心の平安に到達する道はない。
真に覚れるものは世俗の生活において
本当の生活をする。
私の内なる魂は、真理により
そして勤勉により救済される。」ナナク

 「自分が汗して得たものを家族、またそれを得るのに一緒に働いた仲間と分ちあい食べることこそ正しい道である。」ナナク

 ナナクが物乞いを恥と屈辱として人々に生産労働に従事することの尊さを説いたのでシークの人々は驚くほど勤労意欲が高い。一般にインド人は勤労意欲が低いとされるがシークの場合は違うのである。現代のシークはインドの人口の2パーセントほどだが軍隊、政治、実業界、技術者にシークは高い位置をしめる。タクシー運転手にシークが多いのは良くしられているが、かつてのカルカッタでは一人の例外もなくタクシーの運転手はシークだったといわれる。また軍隊でのシークの割合は3割を占め、将官の半数はシークだといわれる。インドの工業の近代化の一翼をになったのはシークだったという。パンジャブ州のシークは農業の近代化を進めきわめて豊かになった。パンジャブ州はインド有数の穀倉地帯である。

 1947年8月15日にインドとパキスタンは分離独立した。
突然パンジャブは二つに分割された。インドの実情を全く知らないロンドンの弁護士が統計資料だけで国境線にペンをひいたのである。ナナクの生誕地はパキスタンになった。

 イスラム連盟のジンナーが強固に連邦政府案を拒否したためイギリスは分割を決意、パンジャブとベンガルの分割は独立の2ヶ月前の6月3日に突然発表された。そのため、パンジャブ州のヒンドゥー・イスラム・シークの人々はわずか2ヶ月のあいだに移動しなければならなかった。このとき1500万人が難
民となり着の身着のまま、わずかな家財道具を持ち移動した。パンジャブ州は大混乱に陥った。各地で略奪が横行した。列車で避難した人々の中には女、子供、妊婦にいたるまで、列車の避難民全員が虐殺された者もいた。当然、ヒンドゥー・イスラム・シークの間で復讐の連鎖がインド中に吹き荒れた。ナナクは平等な理想社会を造ろうとしたがもう一つのカーストと宗教組織が出来る結果になってしまい今日では他の宗教との争いの種になってしまった。

参考文献

「シク教の教えと文化」保坂 俊司 平河出版社
「インド思想史」中村 元 岩波書店

「ヒンドゥー教史」中村 元 山川出版
「ヒンドゥー教」R.G.バンダルカル せりか書房
「アーリアンとは何か」津田 元一郎 人文書院
「インドの神々」リチャード ウォーターストーン 創元社
「中世インドの神秘思想」トゥッラ 刀水書房
「インド思想」早島 鏡正 東京大学出版会
「ヒンドゥー教の本」 学習研究社
「ヒンドゥー教」 ニロッド・C. チョウドリー みすず書房
「シク教」 W.O. コウル  筑摩書房


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